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自分に似た人を探し求めて
2019年04月18日 10:08古典的王道としての快原理に従えば、やはり僕らは元の状態に戻ろうとしているとしか言いようがないのでしょうけれど、元の状態、その元の状態というのはどのような状態の事を指すのか。
一つは有機体である事を放棄する事そしてもう一つは幼少期に遡って、あなたは男であるとか女であるとかと言った分岐点を承諾と共に通過する以前の心的両性具有的状態、幼児期にそのような事を思考している訳ではないけれど大人になって振り返った時には、そうとしか言いようがない万能感高揚感、きらめく可能性の塊としてファンタジーを浮遊していた今となっては決して戻る事が出来ない・・・・・・・が故に渇望して止まない両性具有的状態。
両性具有的自分は幻想であったと突き付けられ、その事実を承諾して男児になるものもいれば女児になるものもいる、そしてそれは多くの場合そのまま、男性もしくは女性に成熟してゆく。
そんな成熟心身の中でどのような格好でその昔捨て去るしかなかったファンタスティックな万能感としての両性具有的状態を取り戻すのか、それは自分が認識している自分の性とは異なる性、というのは多くの場合は異性と密着なのか一体なのか融合なのか取り込みなのか、まあほぼ一心同体とかいう言葉でいいのかもしれませんけれど、私の一部であったり俺の一部であったり、俺の女であったり私の男であったり。
そのように見なしたそしてお互いが納得し合ったものと合体密着を続ける事によって二人は一つ的な両性具有的完璧な存在として自分たちというひと塊を新たに生成しようとする。
まあこんなような理屈を持ちだすまでもなく好きな人と一緒にいれば万能感や高揚感の真っ只中に居続ける事が出来るという事実、運命の人、それは間違いなく、快。
この状態が崩れた時、というのはその一体だった相手を喪失した時、その喪失者は自動的にもう一つの快へ移行するそれは、有機体である事を放棄する、いやまあ本当に放棄する訳ではないですね、比喩的に放棄すると言ったらいいかそれは絶望として「死んでしまいたい」みたいな言葉で言い表される状態、無機質へ戻ろうとするという、快・・・・・・それの上っ面もひとつの永遠の器官無き身体であるとも言える。
道端の石ころに突然精神が宿ったら、突然意識や心が芽生えたら、自我が生成されたら、その石ころは何を思うでしょうか、元々の自分というのはこの無機物としての冷たく硬い石なのか、それともこの意識こそが元々の自分であってただ単に自分の意識が何故かこの石ころの中に閉じ込められたと考えるのでしょうか、唯物論と観念論の狭間で焦燥する自分、しかしそもそもその自分とは何なのか、この容れ物としての石が自分なのか、この心のようなものこそが自分なのか、この容れ物を放棄したら自分はどうなるのか、心的緊張から解放されるのか・・・・・・・・・・・ああもう、なんかキリがないからやめておきますけれど、とにかくそう僕らは、自分に万能感をもたらしてくれる大切な相手を求めて彷徨うのでしょう、それは多くの場合、自分に似た相手である事は確か・・・・・・・・誰でも自分が一番大切、その一番大切な自分にそっくりの人、自分と同じように大切な人。
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