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自分に抗いながら 社会的自分と個人的自分
2017年02月03日 21:39生きるという事、自分は生きていると実感する事、これは一つには、社会の中でしか成し得ない、人と関わることなしには実感できない、自分が生きている、という事を認識してもらうには、自分以外の誰かが必要な訳ですから。
・・・・・・・・・・僕らは、常に何かに抗い続けながらしか生きる事はできないのでしょうか。
その何かと言うのは・・・・・・・・・自分・・・・・そうですね、多分自分に抗い続けながら生きている。
なぜ抗う事になってしまうのか、それは、なんだろか、僕らは社会的人間として、自分の置かれている環境の中で生きていて、そこには環境からの要請や要求や期待があって。
だからそれを演じ続ける事なしには、役割を遂行する事なしには、生きる事はできない、そうなのだけれど、そこにはジレンマが存在する。
本当はこうありたい自分、本当はそんな役割は拒絶したい自分、ほんとは皆が思っているような人間ではない、なんかしんどいから降りたい、今はこうあるけれど記憶を遡るともっと違う生き方をしたかったようにも思えてしまう。
社会の要請と自分の内奥から湧き上がってくる想いのギャップ。
ジレンマもあるけれど、でも役割は役割だからと、自分の内奥を抑え込んで、湧き上がってくる自分の想いに抗い続けて生きている、ようにも思います、自分の想いは抑え込まないと社会や環境にうまく適応できないから。
社会的自分と本質的自分、突き詰めればそれは「個人的自分」のギャップを、苦悩や時には喜びと共に生きているとも言えるのかもしれませんが。
大きな葛藤と共に、抗いきれなくなった時、それは不調を感じている時という事ですが、そういう時は環境から離れたり環境を変えるといい、と言われるのは、こんな理由もあるのかもしれないですね。
環境が変われば、要請される内容も変わるのでしょうから。
だから、環境を離れようとする事や、思い切って別の環境に移動しようとする事は、逃げる事とは違うのでしょうね・・・・・・・環境と自分とのギャップを容認可能なところまで縮小する、という事になるでしょうか。
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