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自分の代わりはいくらでもいる、と思える事。

2016年12月24日 09:15

あくまでも僕個人に関してという事ですが「自分の代わりはいくらでもいる」という考えは、裏を返せば自分は社会的なシステムを支える役割を果たしていると自負している、という発想に基づくもので、だからこその自分の代わり、という発想、歯車をいとも簡単に交換するイメージなのかなと思いますが。
担っていると思えなければ、変わりも何もないのでしょうし。
これは社会システムを100%受け入れて、信頼もして、依存しているからこそ芽生える考え方なのか、信頼や依存の対価としての権利、とか・・・・・そう考えた時、自分は社会にとっていてもいなくても同じ、いなくなった所で自分の代わりすら必要ない、そう思うというのは、どうなんでしょう、システムを100%受け入れてはいないという事なのか、依存も信頼もしていないという事なのか、受け入れたくはないのだけれども、自分が生きるためには受け入れるしかないというジレンマ?
はたまた依存して裏切られる事が嫌なだけなのか。
・・・・・・・分かりません、多分ただ単純に、仕事柄なのかもしれません、社会システム内で不調に陥った方々と共に居る事だけが僕の意味であり役割なので、そしてその役割というのは、社会システムからの要請に応じて担った訳ではなくて、当たり前ですが僕が勝手にやっている事でしかなく(システムからの要請・・・・というのは上手くイメージできないですが)。
自分の代わりはいくらでもいる、という考えは、自分も社会システムの一端を担っているという自覚・自負からのみ、芽生えてくるような気もします。
だから、自分の代わりはいくらでもいると思えることこそ、自分は社会に貢献しているというプライドにつながるのではないでしょうか。
ちょっと回りくどい事を書いてしまいました。

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