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自分の素
2017年03月17日 09:35顕示欲を満たす為の持ち物ではなくて、特に値段が高かった訳でもない自身の所有物、持ち物、使い古してなお捨てられないようなもの。
特に人から羨ましがられる訳でもなく、珍しいものでもなく、でも自分では気にいっていて、愛着もあって、手にしていると何となくホッとする、落ち着く、自分にフィットしているようにも感じる。
身の周りの持ち物でもいいですし、置物やぬいぐるみの類でもいいですし、何の変哲もない、小さな使い慣れたもの、使い古したもの、絶対に捨てられないもの。
・・・・・・・昔、何かの本で、かなり歴史的に有名な人なのですが、いつもポケットに子供の頃拾った平たい小石を忍ばせていた・・・・・・というのを読んだことがあります、相当昔に読んだものなので、細部はどうだったか。
で、なにか大切な決断をする時には「友達と話してみる・・・・」というような事を言って、ポケットに手を入れて、小石を撫でていた、その小石というのはいつも同じ部分を撫でられているので、真ん中が滑らかに窪んでいた。
この友達というのは、誰なのでしょうか・・・・・・。
思うに、自分という自我が芽生える前の自分、それは想像するに、言葉も話せず、ただ純粋な生命として、観念の次元を心地よく漂っていただけの、人から見ればありふれた存在、でも今の自分から見ればこの上なく大切で愛おしい、自我が芽生える以前の、今の自分の素。
この歴史的人物の場合は、時代が時代だからでしょうか、小石という事のようでしたが、こういうのはいつの時代も僕らの本質として変わらないのか。
小さく、他人から見ればありふれているのだけれど、自分としては愛着があって大切なもの・・・・・・その物に自分だけが見ているのは、自我が芽生える前の愛おしい、自分の素。
それを手にする時、一体化する時に湧き上がる、なんとも表現しがたい、しかし確かに陽性の情動・・・・・自分というのは社会全体から見れば、とるに足らない小さな変哲のないものに過ぎないのでしょうが、自分にとってはこの上なく愛おしい、大切なもの・・・・・・接続して、思い返して、再認識して、また歩く、今の自分というのは、自分の素の延長線上にいるのでしょうしね。
何を自分の素とみなすかというのは、都度、経験や環境によっても違ってくることもありますね。
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