神奈川県藤沢市城南 東海道線沿線のカウンセリングルーム。辻堂駅より国道一号線方面へ徒歩12分。10:30~21:00、年中無休。
自分の親父と心ゆくまで、話す。
2018年01月26日 10:23親戚の人達に会うとここ何年かよく言われる「おまえ、親父にそっくりになってきたな」と。
見た目は確かに、そう、父の写真とか見るとそんな感じでもあり、ちょっとゾッとする事もあります。
ただ中身はどうなんだろうか、僕はあんな風に一本気ではないように思うし、強固な意思のもと不言実行という訳でもないし、万難を排して一路邁進という訳でもない、大学卒業以来一つの事に・・・・これは仕事も勿論含めて、自分はこうであると突き進んでいる訳でもない、母の、というか父にとっては女房の、暴力的言語の数々に黙って耐え続けるという事もない、自己犠牲的男の美学に関しても父の足元にも及ばない・・・・・・・とか勢いで書いていて、なんだこれは、俺は親父を尊敬していたのかというような事を今更ながら思いつつ。
だいたいがあの親父は死ぬのが早過ぎんだよと思う、もう10年以上経つでしょうか、ろくに自律した男同士としての話もしないうちに。
しかしまあ、なんだこれは、ファザコンかよとかも少しだけ思います、マザコンのように恋い焦がれるとか甘えるとかいう不気味なものではなく、本来の意味合いでのコンプレックス、観念の集合体としてのコンプレックス、日本的な劣等感という意味とも違います。
厳格さ、断ち切る力、ロゴス、貫く、度量、寛容、包容、あの人は口に出さないまでも「男とは・・・・」みたいな想いと共に生きていたように思う、最後は勝手に、そしてかなりアッパレだったし、自分も同じようにできるのかどうか、分かりません、多分できません。
男は大人になってから、親父と十分に話す、分かり合う、尊敬を向けさせてもらえるまで、これって結構重要な事であるように思います、僕には叶わなかったことですが、ただその場合は理想の父親像を自分なりに設定してそれを自分が取り込めばいいだけなのですけど。
男が自分の事をナルシシックに語るのはダサい、と常々思っているのですが、なぜか今日はそのダサい事を敢えてやりたくなってしまいました。
愛とは執着、愛は自分に似たものに向けやすい、姿かたちが似ている、身体機能も同じ、それは父親、ただし身体的な愛ではないというか、性愛では勿論ない、知に変換された愛、相手の知を吸収しようとして執着する。
ちょっと話は逸れますが・・・・・・・なんとなく古代ギリシャ的でもあるようにも思え、プラトン的な愛、プラトニックラブ、とか、でもあれは同性の若者に向ける性愛をごまかしただけでしかないのかなとも思いますが、だから違いますね、ただし理想の像ではあるのかなと、理念としては正しいように思います。
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