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自分はまだ生きているのか

2018年02月23日 10:36

ニュース等で急死という言葉を聞くたびに、これはもしかしたら誰にでも起こりうる事なのかもしれないし、自分に起こらない可能性はゼロではないのかもしれない、という思いが湧き上がってきます、否認しきれずに脆弱な理性の壁を突き破って、浮き彫りになる圧倒的無常。
誰だっていつ死ぬか分からない、という現実を抱えながらなのか、現実を覆い隠しながらなのか、そんな中でどのように生きてゆけばいいのか。
どのように生きるか、という事を意識しないようにして現前を味わい続けるという生き方もあるのだろうし、自身が打ち立てた目標に向かって邁進し続ける自分というものに充実を感じ続けるという生き方もあるのだろうし、もっと刹那的な生き方だってある、誰がどんな生き方をしたっていい、自分の生なのだから。
ただ、そうこうしているある瞬間にふと「・・・・・・いつ死ぬか分からない」が浮上してきてしまう時、途方に暮れる、無情に膝を抱えるしかない体の芯が凍えるような鋼鉄の牢獄。
常に表裏一体、隣り合わせ、そんな中で僕らは奇跡的になぜか、恒常性を保ち続けているだけなのかもしれない、うちの母が検査が大好きなのもちょっと、分からなくもないように感じてしまう、MRI、マンモ、レントゲン、CT、内視鏡、月に一度は常に何らかについて検査し無事を確認し続けて安心を得ているという、強迫症状なのか生への執着なのか。
まあこれは逆に相当病的でもあり、ただ本人がそれで安心できてまだ続く可能性が高いように感じる事が出来る自身の生を満喫する事が出来るのであれば、それはそれで有効な事なのでしょうけれど。
昔、僕は子供の頃、100円ライターが売りだされた時、これって人生みたい、寿命みたい、と思った、中の液体が透けて見えていて、それがなくなった時点で終わり、でもこれは目に見える。
なんか話が変な方向に逸れました・・・・・・・可視不可視、予測が可能なのか、予測が不可能なのか、何かが起きているのか正常を保っているのか、この事実はかなり不安を伴うし、恐怖でもある。
なにか突き詰めると、思うに、生きる事というのは、何のために生きているのかというのは、多分僕は、自分がまだ生きている事を確認し続ける為に、生きているようにも思える。
何のために生きているのか、自分が今も生きている事を確認し続ける為に生きている、生きている事を実感する為だけに生きている、それはいつどの瞬間にやってくるか予測不可能な現実が、怖いから、だから今はまだ生きている事実を確認し続け、つかの間の安心を得ようとする。
どうやって確認するのか、人と交流する事によって、何かに思いっ切り打ちこんで自分を追い込んで、疲労を感じる事によって、喜怒哀楽という情緒を感覚する事によって、挫折したり苦悩したり高揚したりする事によって、自分を追い込み傷つけ続ける事によって。
ところで・・・・・ネット上での交流というのは、身体的な交流ではないのかもしれないですから、あまりそればかり続けていると自分が実体のない意識だけの、もしくは言語だけの存在になってしまったかのように感覚してしまう、時もある・・・・・まるで自分はファントムであるかのように。

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