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自分は何故生き続けているのか

2017年10月07日 10:37

今日まで生きてきた中で一番ゾッとしたドラマの台詞はデスノートでデュークがライトくんに言い放った、あれは確かデスノートを使った者の行く末みたいなくだりで「・・・・・無だ」という台詞。
この「無だ」という言葉自体に、大きな戦慄を覚えました。
思い返せば、中学高校時代、思春期、割と哲学的思考に振れやすい時期。
死ぬってなんだ?・・・・・死んだらどうなる?・・・・・生まれる前と同じ状態に戻る?・・・・・それってどういう状態だったっけ?・・・・・覚えてる?・・・・・覚えてない・・・・・自分は、無かった・・・・・なにも、ない・・・・・無、とか・・・・・無になる?・・・・・ただ、消滅する?・・・・・
この問答は延々と続く訳ですが、そんな様な事を話しつつ、なにか思いっ切り叫びながら走り出してしまいたいような、それは全てをなかった事にする為にとか、今の結論を忘却の彼方に追いやる目的でとか、血液の逆流を実感するしかない極限的焦燥の真っ只中で。
無とは楽なのか、無になるという事は楽になるという事なのか、僕には当たり前ですけど、分かりませんが。
楽を感覚できるのも、自分が無ではなく有だからこそ、消滅していないからこそ、生きているからこそ楽を感覚できる、消滅すれば感覚もなくなるしかない、無とは文字通り何もないという事なのでしょうから。
僕らは、取り返しのつかないもの、として自らを認識する、身体として発生し、いつの頃からか「何だか分からないけど、これが自分」と、何故か、認識する中で、それは自明という事にしておくしかないのかもしれないですけれど。
自らの意思の及びようのない中で、発生してしまった、生まれてきてしまった、という、取り返しのつかない事実を葛藤と共に何とか受け入れ、肚を決めて、最後の時が、これは逃れようのない最後の時が、やってきてしまうまで生き延び続ける。
「それは何故なのか?」という論理的な理由は、僕にはありません、ただ感情として、動物的感覚として、思考する動物として、無に帰すことが怖いから、としか僕は言いようがない、イマジネールの領域では様々な想像的理由付けが可能なのでしょうけれど、その領域から自分を無理やり引き剥がして突き詰めていった時にはこんな感じ。

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