
神奈川県藤沢市城南 東海道線沿線のカウンセリングルーム。辻堂駅より国道一号線方面へ徒歩12分。10:30~21:00、年中無休。
自分は存在しない
2017年12月22日 10:29年末年始、せっかくの休みなのだから自分が楽しいと思える事を、とは言いつつも、僕は自分が何をしている時に楽しいと感じているのかどうか、などという事を意識して生きていないので、楽しい、楽しいってなんだろう、と思わないでもない。
そもそも楽しいから何なのだろう・・・・・・何かを行為した事によって自分の中に情動の変化が生まれて、その感覚はウキウキわくわくする高揚感を伴っていて、自分の心身が軽く暖かくなったように感じたり、満足を得たり、生きててよかったと感じたり、みたいな事が楽しい経験という事なのか、ほんとにそんなことが楽しいに直結するのか、楽しいなどに規定されたくはない、楽しいというキッチュさにうんざりしながら、その楽しいのもっと向こう側へ行きたい衝動。
人と接している時に得やすい感覚でしょうか、人と情緒的に交流する事に成功したように感じられた時に得やすい、そしてそれはなにもポジティブな交流に限定される訳ではない、相手のネガティブに触れた時、悩みを打ち明けられた時や頼られた時、そっと依存された時、自分がしっかりしなきゃいけないように感じた時、精神と精神が通底し暖かくなったような感覚。
楽しい事というのは、実はどうでもいい、生きる上でそんな文脈なんか放棄したって一向にかまわない、そんな事より大切な事という言い方でいいのか、もしくは同列に論じる価値すらない事なのかもしれないですけれど、満足、充実、意味、自分の意味、自分というのは意味の中にしか存在できない、自分が意味を作るのではなく、成立した意味が自分の存在を許可してくれる、ただそれだけの事のように思え、何をするかではなく、誰とするか、大切なのは、誰とするかという事。
普通に書くと居心地の悪いポエムにしかならないように思えて、だから文学とか哲学とか、とにかく意味不明にごちゃ混ぜにして観念的にごまかしました。
文学と哲学ってごっちゃにすると、結果的に妙に観念的なポエムに仕立てあがるように思います、核心に迫らない為にはとても便利。
意味の中にこそ自分は存在する、その意味は流れの中で他者との交流を通じて生成される・・・・・・・自分はそこにしかいない。
逆に言えば、万が一そのセリーを放棄したとしたら、自分の存在は消え去るしかない、自分は存在しない。
・・・・・・・ラカン的な「女は存在しない」的な語りつくせなさという意味合いのパロディでは一切なく、本当に「自分は存在しない」という事態に陥るしかないのだと思います、と、まわりくどいごまかしに終始してしまいました。
微妙に文脈をずらしつつ、ほんとは何が言いたいんだか、自分自身でも明確にはしたくないのです。
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