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自分らしさとは
2017年05月17日 21:31僕らが、誤作動するという事はどういう事なのか。
僕らが日々を送っている環境には、社会には、規律のようなものが当然あって、社会に参入するという事は、その規律に従った上で参入するという事。
そうですね・・・・今の時代は規律などという大袈裟なものではなくて、空気、規律というのは空気のように社会全体を、人それぞれの環境を、取り巻いている。
ならば、その規律や空気に従う事ができる事が、参入して作動するための条件であって、資格という事なのでしょうか。
抵抗なく規律を受け入れ作動する事が出来るのが、人間の理想的モデル・・・・・・なの?
その理想的モデルそのままの人間というのは本当に存在しているのかもしれないですし、もしかしたらそれは、こうあるべきという、絵に描いた理想像もしくは、全ての人間が目指すべき高み、とか書いている傍からなんとなく憂鬱になってきてもしまいますが。
理想像から逸脱した要素こそが、個性であり自分らしさである、みたいな見方もあると思うし。
自分らしくあろうとした時、それは多勢からの逸脱を伴う場合があって、それは誤作動とみなされるのかもしれないけれど、その誤作動が新たなものを生み出すことも・・・・・・・いや、ないな、誤作動は新たなもの、とりわけ新たな有効なものは生み出さない、新たなものを生み出すというのは、それが社会に必要とされているから生み出されるのであって、それは誤作動ではなくて、適切な積極的作動。
自分らしくあろうとする行為というのは、環境をすり抜け続けようとする強い意志、なのかもしれないです、無理を承知でそれでも主張しようと目論む強い意志、不可能を承知で、それでも環境や構造からの逃走を目論む態度、それって無理なんですけどね。
そこで向けられる感情は、羨望、尊敬、軽蔑、さまざまなのでしょうが。
ああそうだ、多勢から憧れを持って受け入れられる、表現されるところの「自分らしさ」というのは、あれは誤作動ではなくて積極的作動なのかなと思いますが。
などという、なんとなく今思った事を、うっすらと書いただけなので、えらく観念的で、なんかすいません、分かりにくいですよね。
誤作動しないようにするには、自分の奥底から湧き上がってくるように感じる想いには蓋をしなくてはいけなくて、見ないようにしなくてはいけなくて、そうやってみんな社会に適応しているのだろうけれど、それが上手く機能しなくなった時に、人は病むのかもしれません。
極論を言ってしまえば、僕らは誤作動する事でのみ自分らしく作動する事が出来る、自分らしく作動するには社会から誤作動している奴とみなされるしかない・・・・・・とか言ってしまうと、なんか寂しいですね、まあ、極論ですから。
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