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自分を中へ開くと、自分は閉じる。
2018年01月13日 11:21話す事に対しての書く事、講義に対してのテキスト、パロールに対してのエクリチュール、どちらが伝わるのか、強度や客観性はエクリチュールが優位のようにも思う、ああそう、金八先生とかでありましたね、なにか大切な事を伝えようとする時「はーい、じゃあみなさん、教科書はしまいなさーい」と。
ただあれは、転移なのかな、先生側の欲望を生徒に転移させようとする戦略、想いや情熱という基盤の上を言葉が走査する、結果的にポエムになる、先生の熱い想いが、伝わったような感覚になり感動すら覚える、その語られた内容が事実なのかどうかは関係ない、ただ、金八先生は常にいい事を語っていた、これは間違いない。
いや金八先生について書こうと思った訳ではないのです・・・・・・・・なんだったかな。
書く事、そうだ書く事、書く事というのはどういったプロセスを経て・・・・・だったかな、なんか書きだしたら金八先生に話しが逸れて最初に思っていた事を忘れちゃいました。
パロールに対してのエクリチュールの優位性とかそんな事か・・・・・・。
僕の中では、あくまでも僕個人のスタイルとして、感覚でしかありませんが、話す時というのは自分を外に開いてゆくイメージ、書く時というのは逆に、自分を中に開いてゆくイメージ、中に開いてゆくイメージというのは、傍からその書いた人を見た場合には、閉じているイメージに映る、だから自閉して、入り込んで見える訳ですけれど。
書く時も外に向かって開いてゆく人も勿論います、その方が多いのかなと思いますが、外に開く、他者と関わろうとする欲望、中に開く、自分と関わろうとする欲望、サイクロイドに対してスキゾイド、躁鬱に対して統合失調、外に開く、その欲望が満たされている限りはその人は幸せ、だから他者に承認され一体感を味わい続けている限りは幸せ、それが上手く機能しなくなった時、極端に言えば鬱的になる、これは一つの病理的な見方でしかありませんが。
逆に中に開く、その行為自体が既に統合失調的であるように僕には思えてしまう、ただ、父の名は取り敢えず機能している、これは自分の状態を客観視した場合にという事でしかありませんが、その欲望は必ずと言っていいほど満たされる、自閉している訳ですから他者の承認がどうこうという事は関係ない、意識すらしていない、自分を中に開いていって、自分の中を探るという行為、この事自体が満足につながる、時にはフェティッシュでもあるのかもしれませんが、中を探る、中を探ると言葉がそこに渦巻いている、中とはどこなのか、大文字の他者、言葉が渦巻いている場所、無意識、それは自分の無意識、ああ、大文字の他者はどこにでもある、内にも外にも、まあいいですこれは。
自分の無意識の中には今まで自分が見聞きした言葉が渦巻いている、そしてその言葉は何らかの僅かな刺激によって、勝手に整列する、その整列した言葉をただ単純に書きつける、理性を排除した上で、だからシュールレアリズムの自動記述にも多少は近い行為なのか、入り込み、どんどん自分を中へ開いてゆき、言葉を書きつけ続ける、そこで万が一、言葉が規律を失ったとしたら、常識的な人には一切伝わらない言葉の羅列になってしまうという危うさもないこともない。
自分を中に向かって開いてゆく、そこに言葉が渦巻いている、大文字の他者、無意識、無意識は自分の中にも、自分の外にも存在する、自分の外に存在する無意識を感覚した時、それは徴候になる訳だから、やはり通常は自分の中に存在する無意識に向かって開いてゆく、はた目には閉じてゆくという事なのかな。
自分の無意識を、理性で濾過せずに書きつける、もしそれが100%可能なのだとしたら、本当の自分という事でいいのかもしれない、無意識の主体という空虚としての自分が何を思うのか、少しだけそれに触れる事が出来るのか、そうではなくそれは不可能なことなのか。
エクリチュール、パロール、僕はエクリチュールの方がダイナミックであるように感じます。
なんか寝起きでいきなり書きだしたから支離滅裂です、なにも伝わっていないと思いますし何かを伝えようと意識できていない薄ぼんやり感の中で、すいません。
今度ちゃんと整理して書きます。
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