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神奈川県藤沢市城南 東海道線沿線のカウンセリングルーム。辻堂駅より国道一号線方面へ徒歩12分。10:30~21:00、年中無休。
自由に話さなければいけないという義務
2016年09月18日 20:03僕らは、人から要求された瞬間に、その要求に応えようと、それはたぶん無意識的にという事なのかもしれないですけれど、要求に応えなければいけないと思い込んでしまう、だからこれは要求に応える義務があるように感じてしまう、という事なのだと思うのですが。
こういうのは閉鎖された空間で特に起こりやすい現象で、それはカウンセリングの領野においても同じ。
「どのようなお悩みが? さあ安心して、なんでも自由に話して下さいね~」
実際に対面し、自由に話す事を要求された瞬間に、自由に話さなくてはいけない、という義務に囚われてしまうし、力関係も発生してしまう・・・・・・一生懸命思考を働かせなくてはいけなくて緊張しますし、ちゃんと自由に話せているかどうか不安にもなって、となると、そこには自由はないですね。
社会の中での要求や期待に疲れているのに、それを何とかしようという空間でまた、新たな要求を突き付けられる・・・・・・たとえ突き付けられている要求が自由に話すという事だったとしても、それも一つの義務なのですから。
だから、どうなんでしょう、要求や義務という言葉を意識する必要のない中で、お互い一切構えずに、ゆる~く、ふわ~っと、まずはあまり重要な情報が伝達していないようにも感じる状況の中でーー多分これは、その方の周辺の話というか、ちょっとだけお互いが共有できる世間話というか、取り留めのないような話というかーー緊張感を感じさせない、自然体にも通じるところから入った方がいいような場合もあるんじゃないのかなと思うんですけど・・・・・というか、自由はそこにしかないんじゃないのかな、と。
「自由に話してくださいね」とは、自由に話せという、言ってみれば命令であって、自由にしろという事を命令されるというのは、なんか命令されている時点で自由とは言えないような、尊重されていないような、自由と命令ってなんか相反するイメージもありますしね。
ほんとは、そんな言葉すら意識する必要のないような空間でしか、自由に話す事はできないんじゃないでしょうかね。
対面した時、自由という言葉を発した瞬間に、その空間から本当の意味での自由は排除される・・・・・・な~んて事を、今日はちょっと思いました。
あぁ、そうだ、これはまた話しが違ってきてしまいますが、自分で宣言する自由というのはイメージしやすいですけど、人から与えられる自由って、なんか胡散臭かったりもしますね、監視・力関係・放棄・見限る・・・・これは、また今度書こうと思います。
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