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自由

2018年08月08日 09:45

人から共感される事によって自分の在り方は間違っていないと思えるのだろうし、安心できるのだろうし、そしてそれは生き続けてゆくエネルギーや勇気、喜びにつながる。
共感の構造、それは相手も身に覚えのある事であったり、とても近い経験をしているからであったり、自分と同種であると親近感を感じたりするからこそなされる、最低でも想像可能な範囲である事は大前提。
今の世の中は浅く広くそれが蔓延しているからこそ、緩やかな相互承認という工夫があるからこそ、多くの人が共感し合うという作法の元での生きやすさ。
自由、自由、自由、口で言うのは簡単、本当の意味での自由・・・・・・フェイクとしての常套句的予定調和的自由ではなく極北において、あくまでも自分は自由であろうとした時、その自由な態度に誰が共感してくれるのか。
人がその態度を見ても、それは自分とは違うという異質さを感じてしまう、そこに身に覚えのある経験を見い出す事は出来ない、となると、共感は不可能。
自由であり続けようとした時、今の世の中を構成している相互承認という重要なファクターの枠外に出るしかない、相互承認というエネルギー供給は期待してはいけない。
通常、人は他者の承認によって支えられる、これは、どんなに綺麗事を言っても、という注釈付きでいいと思いますが、しかし、自由であり続けようとした時にはその承認は一切期待できない、その人の態度には誰もピンとこない。
では自由である人を支えているのは誰なのか・・・・・・・勿論、強靭なその人の精神そのものが、その人を支えている。
一般的に口に出される自由「自由でありたい」という想いを発信したり、少しだけ逸脱してみせる身振りというのは共感可能、そういう経験は他の人達も勿論ありますし想像可能ですから。
そうではなく徹底した自由を本気で演じている人、それは世間から見たら異質でしかない、共感は不可能。
自由であり続けるという事は、自分が強くあり続けるしかないという事。

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