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芸術作品としての季節

2016年11月26日 09:07

神秘性を感じる芸術作品を前にした時、そこで感じた事を上手く言葉で言い表すのが不可能であるのと同じように。
自身の根底で柔らかな呼吸を繰り返している何らかの観念のようなものを上手く言葉で言い表そうとする試みというのも、どんなに語呂を豊かにしたとしても、やはりそれは不可能であるようにも思えます、あがけばあがくほど、観念が分裂してゆく感覚。
芸術作品というのは、それが優れていれば優れているほど、言語では出来ていないという場合もあるのでしょうから(頭で考えて作られたものではない、という言い方もあるのだと思いますが)、やはりそれは、言語とはかけ離れたものという事になるのか、そしてそれと同じような感覚の言語化不可能性を、自身の根底にもし感じとるのだとしたなら。
それは既に、忘れ去られている場所だからなのか、もしくは忘れる事を迫られて、その圧力に自らが率先して屈服したからなのか。
誰にでも、今となっては言語化不可能な純粋な芸術作品であった時期というものが確実にあったのだと思います。
人生の一時期になぞらえれば、芸術作品であった季節、という表現の方が適当なのかもしれないですけど。
そしてその作者は誰なのか・・・・・・・自身を取り巻く環境としての、たぶんそれは、養育者という事なのでしょうね。

それは美しく恋しい季節だったのか、そうとは言い難い季節だったのか、もしくは理想としての変容を被っているのかもしれないですけど。
大人になった今でも、誰もが、自らの言語化不可能な根底に常に立ち帰り、自らを引き受け、その自らを自身の芸術作品として表現し続けているのでしょうか、そしてそこにこそ、魅力というものが宿るのでしょうか・・・・・・・なんて事を言うと大袈裟になってしまいますけど。

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