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装飾を施した「欲望機械」という僕ら
2019年07月15日 17:04考え始めるとどんどん深掘りしていってしまって、その先で具体的な言葉で表現出来るのかというとどうしてもそれは不可能、だから避けようのない、抽象的表現の洪水になってしまうのだけれど。
自分、自我、自己、自意識、無意識、なにかそんなようなありきたりを常にすり抜け続ける、これは、経験の集積、そしてその集積に螺旋状に付帯している感情の集積、何故螺旋状なのかというとそれはフロイディアンの言うところの心的装置側鎖モデルのようにその場その場の、そしてその時々の自分の在りようによって唯物論的に感情が立ち現れてくるから、だから、同じような似通った経験の時に必ず同じ感情が湧き上がる訳ではないという意味。
そんな、経験、それは知と言い換える事も可能なものの集積とそれに付帯する感情の集積、普段は無意識の奥底に静かに沈殿してそこで耳を澄ませている、それこそが自我を押しのけて、単なる無意識を押しのけて、自分を構成している最も重要な要素として常に浮上し続けてくる、なんというかデータベースからすら隔離された宝石箱的・・・・・・・アーカイブ、そのアーカイブこそが自分であるように思います、それは普通の言葉で言い表せば在りのままの自分というものにも近いのかもしれませんが、要は欲望としての自分。
そのままの、丸出しの欲望のままの自分で社会に対応出来るかというと決してそんな事はなくて、だからその在りのままの自分というアーカイブは丸出しの欲望を覆い隠しながら又は押し殺し隠し持ちながら、社会に適応可能な自分を仕立て上げる、それはインターフェースとでも言い表すのが最も適している接触装置として。
その接触装置は自分次第でどうにでも変形可能な、どうしてもインターフェースとか持ちだすと電子機器を想像しがちですけれど、そんな洗練術ではないもっとアナログな、機械、欲望機械、ただこの機械は丸出しの欲望を覆い隠しているのだから、虚飾を伴ったそれは美しく装飾したもしかしたら偽善的欲望機械、ただこれは露悪的に言った場合はという事だから、見栄えよく体裁を整えた欲望機械という言い方が最もふさわしいのだと思います。
欲望機械は形を変え続ける、いらなくなった部品を取り払って新しい部品を取り付けたり、時には全てを解体してもう一度いちから組み直したり、特に自分の目指すべき方向が変わった時とか転回が起きた時とか一旦仕切り直しをする時とか、あとは経験や学習によって洞察が深まった時とか、あとはちょっとした気づきと言われる事態に直面した時とかも。
形を変え続ける欲望機械、その部品はどこから調達しているのか、それは自身のアーカイブから調達している、アーカイブは自身の潜在性でもある、潜在性の奥底を辿るとそこには未分化の卵が存在している、その卵の近辺には分化したての真新しい部品も散らばっている、まあその部品を拾って、工夫して、自身の分身である欲望機械に取り付けるわけですけれど。
僕らは何かを行為する時、そのなにかになり切る、そのなり切るモデルというのは自分が今まさに行為しようとしているキャラクターの在るべき姿という理想像、湧き上がるヴィジョン、自分が考えた自分なりのシミュラークル、キャラクターとしてなり切ればあとは自動的に体裁を整えた欲望機械としてただ動作すればいいだけ、そしてその動作している自分をワクワクしながら眺めているアーカイブ的在りのままの自分、という構図。
やってみようと思えて、なんとなく機械が組み上がったのだとしたらそれは自分にその潜在性があったという事だし、もっと言えば潜在性がないのだとしたらそもそもやってみようとすら思わないのだし。
部品は、使わなければただのジャンクでしかない、どんどん形を変え続ける欲望機械としての自分を楽しみ続ければいい・・・・・・・・・とか言う、非常に抽象的な話でした。
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