
神奈川県藤沢市城南 東海道線沿線のカウンセリングルーム。辻堂駅より国道一号線方面へ徒歩12分。10:30~21:00、年中無休。
親が弱ってゆく、という事。
2017年08月20日 21:5740代50代位になってくると、親が徐々に弱ってゆくのを目の当たりにして戸惑う。
僕のところの場合は、母は妖怪人間としてピンピンしていますし、父はもう、早くになくなったのですが、誰の手も煩わせるとこなくアッパレな最後だったので、今のところは弱ってゆく親という経験はないのですが。
しかし、うちの母みたいに普段は何でも一人でテキパキこなせるにもかかわらずーー5キロの米かかえて生協から歩いて帰ってくるくらいですからーーにもかかわらず、僕が手が空いているのを敏感に察知すると「あ、あたたたぁ、ちょっとごめん、これしまっといて、いたたたっ」と体が痛いふりをしつつ、僕が頼まれた事をやっているのを横目に見ながらスタコラ出かけてゆく、というのは、まあいいですこれはこれで。
自分の親が、どこか体を悪くする、認知症が進行してゆく、骨折して入院、徐々に弱ってゆく、これは精神的にも弱ってきたりもしますね、当然体を壊せば普通は気持ちも弱くなってきますからね。
今まで、そうそう具体的な何かをお願いしたとか、事あるごとに何か相談をしていたという訳ではないにしても、やはり親というのは、これは適切に機能している親子関係においてという事ですが、子供である自分が最終的には精神的に頼りたい存在、親の前にいる時は、自分が社会的にどんな立場にあろうと、親の前ではただの子供でいさせてもらう事が出来る、というなにかホッとする、安心できる場所でもあるのかもしれないですし。
自分にとってそういう存在である親が、徐々に弱くなってゆく過程というのは、あまり認めたくはないし、寂しいし、大きな葛藤もある、弱ってゆく親に対する苛立ちを隠しつつ。
自分の前にあった、雨風を防ぐ板がいきなりなくなってしまうような心細さとでも言いましょうか。
だからやっぱり、親が弱ってきて子を頼るようになってきた時には、それはわがままを言ったり甘えたりという事も徐々に増えてもくるのでしょうが。
親孝行とか、自分の親だからとか、なんかそういう事でもなく、親としてというよりは、その人として、一人の年老いた人間として、子は親に対しては、自分の親としてしか関わっていない訳ですから、自分の親である事がその人の全てのように思ってしまいますが、親、だからその人にとっては僕ら子がその人の人生の全てという訳ではない、僕らはその人の人生の半分、いやほんの一部でしかないのかもしれません。
そんな中でも、その人の人生の終盤に密に関わらせてもらえる、であれば、その人の人生の最後の部分を、幸せで充実したものに、どうやったらしてあげることが出来るのか。
なんかね、ただこれだけ、ただ、その人の人生に関わらせてもらった、ちょっと重要な一人として、その人の人生の終盤を幸せに彩ってあげられたら。
その人の人生から僕ら子供を差し引いても、沢山の、さまざまな、楽しい、悲しい、辛い、幸せな、多くの経験がきっとあったのでしょうね。
ちょっと最近、僕らの年代ではよく聞く話なので、勢いで思いついた事を書いてしまいました、書きたくなってしまいました。
—————