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親切と愛と嫌悪と
2016年08月13日 09:00「他者」という言葉は、あちらこちらで、さまざまに定義されます。
・・・・・自分にとっての他者とは、いったいどのようなものなのか、と考えてみた場合に(あくまでも今の時点で自分にとっての、という事ですが)。
狡猾なもの、姑息なもの、猜疑心の塊のようなもの・・・・・と書きだしてみたものの、これは排除の対象ということですね、だから他者ではないです、ただ自分がこのものは他者であると認識する事によって、自分の意識の外に追い払いたいだけ。
その証拠に、この対極に位置しているのが、自分や自分の一部であるかのようにみなしている人で、それは上記のような他者に苦しめられている人、そう、そういう人は自分の一部のように感じて寄り添いたくなる、だから排除の対象と対になっている訳ですね。。
愛とは、激しい執着や激烈な感情である、そしてそれは両価性を持っている、と定義した時に、その排除の対象には嫌悪を向けている訳だから、それはそれで激烈な感情である事には違いはなくて、そう、それは憎悪という名の愛を向けているという事。
だから排除の対象には憎悪という愛(激烈な感情)を向けて、その排除の対象に苦しめられている人には、文字通りの一般的に言われている愛を向ける。
だからどちらも愛を向ける対象である事には変わりはなくて、じゃあ、他者はどこに行った、という事になるのだけれど、どうなんだろうか、さしずめ、理解している時間がないもの(その人を理解する為に時間を割くのであれば他の事に時間を使いたいように思う感覚)、という事になるのかな、あとは自分の今の環世界にはいない人とか、興味が湧かない人とでも言ったらいいのか。
そう多くの人と深く関わる時間なんか誰しも持ち合わせていないのだろうから、なんとなくそんなイメージです、しかしその他者の中には接する事によって愛の対象に移行する場合も多々あって。
理解というワードから考えると、排除の対象というのは理解可能な故に憎悪を伴った排除の対象となりうるのでしょうしね。
理解している時間がない人に接した時、自分の気持ちに余裕さえあれば、親切を差し出す事はできますね、理解するとはその言葉の通りコミュニケーションを通じて分かり合おうとする努力、という意味です。
だから、なんでしょう、きれいごとを排除した時「世界は、親切と文字通りの陽性の愛と、そして嫌悪という名の陰性の愛で出来ている・・・・・」今のところこんな感じでしょうか。
誰でもそうなのだと思いますが、通常はこの三つがなんとなく上手く均衡を保っているのでしょうが、ひとたび陰性の愛に囚われると、不調を招いたりするのですかね、そしてそういう時こそ陽性の愛に接したくなるといったような。
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