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親孝行

2017年07月14日 08:41

親孝行というのは、何をもって親孝行なのか?
社会の変化に合わせて「われわれ人間はこうあるのが望ましい」という各種の概念が生み出される、それは進歩や進化というよりは、さまざまに形を変えながら存在し続ける社会の要請によって、今の社会においてはこうあるのが望ましい、というある種倫理的な。
親孝行という概念というのは、人類の歴史の中のいつの時点で発生したのか、本能のなせる行為ではないようにも思うので、だから理性、理性が芽生えるのは言語によって、じゃあ言語の複雑な進化に伴って・・・・・・とかなると。ちょっと時期尚早であるかのようにも思え。
人間以外の生き物はどうなのかと考えてみた時、人間に近いところで、野生の猿、複雑な言語を持たない野生の猿、多くの場合本能で生きているのでしょうが、猿は親孝行するのか、老年期を迎えて弱ってきた自分の親猿にせっせと餌を運び、介護するのか。
親元を離れ自立した猿、発情期にメス猿に何らかの贈答行為はもしかしたらするのかもしれないですけれど、親の介護というのは、よく分からんです。
動物界というのは、自分が成体になったらもう関係ないんでしょうかね、自分が繁殖によって産みだされたように、自分も繁殖よって新たな個体を生み出す事が目的、だから成体になったらハイさようなら、的な。
人間の場合はずっと一緒に住んだりもしますから、多くの情緒も共有するのでしょうし、そこに複雑な言語という理性や、こうある事が望ましいと言った、時代の倫理をすり込まれていると、自明として、親孝行はするものだ、と言った。
いや、書き始め数行から思いっ切り思考が逸れてゆきました、こんな事を言おうと思っていた訳ではないのです、なんだったかな。
そうだ、親孝行、その親孝行というのは今の時代倫理的に自明として、じゃあ毒親に対する親孝行というのはどうする・・・・・・みたいな事を思っていたのだと思います。
あの毒親という概念は本当によくできている、というか誰かが現象をつぶさに観察して言語化したのでしょうから、よくできていて当たり前なのでしょうが。
毒親、多くの場合、僕の知っている限りにおいてという事でしかありませんが、多くの場合は変わらない、何歳になっても心性は変わらない、変わるという事は自分のしてきた事に対して後悔が生まれてしまいますから、それは自分の生きてきた歴史を否定する事にもつながってしまう、そんな事は今更したくはないでしょうしまず無意識的に無理、表象の仕方が変化する事はもちろんありますが。
この状況での親孝行というのは、子の側に大きな葛藤も芽生えます、一番の親孝行、それは引き続き毒を吐かせ続けてあげることなのか、どうなのか・・・・・・・・・・・・かなり問題ではあります。
正常な関係性の中での親孝行は、もちろん自明として普通にやれば、それはお互いの喜びにつながるわけですからね。


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