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言葉がいらない関係

2017年07月28日 08:53

発せられる言葉の裏には、これは裏という事でいいのか、それとも中、発せられた言葉が包み込んでいる内側、発せられた言葉がベールの役割を果たして覆い隠す、まあ、よく分かりません、別にどれでもいいです。
大抵の場合、発せられた言葉によって、その人の欲望は覆い隠されている、言葉は欲望を覆い隠す。
理性的な言葉にしても、本音と言われるような言葉にしても、偽善と感じられる言葉、露悪的に吐き捨てられる言葉、どんな言葉も、欲望を覆い隠している。
もしかしたら隠しているというより、言葉を発する動機、いや動機というより、原因、言葉が発せられる原因、どうしてそのような言葉が発せられたのかという事についての原因。
言葉を発する時、その時に本当に伝えたいのは、言葉そのものではなく、欲望、覆い隠された欲望であり、その言葉が立ち現れた原因となった欲望。
この欲望は、認識可能なようでいて実は、自分が認識できたように感じる事が出来る欲望に覆い隠されていて、決して完璧な認識をする事はできない、という事実。
そこに接近しようとすればするほど、抵抗にあう、それはナルシシズムの強力な抵抗にあう。
決して到達する事の出来ない欲望の主体から見ると、欲望の主体にしてみると、発せられた言葉というのは、隠喩でしかない、欲望の主体としての自分の隠喩でしかない、自分の代替え物でしかない。
その主体というのは、意外なほど幼く、小さく、優しく柔らかなものなのだと思います、かなりの寂しがり屋でもあります。
他者のこれを垣間見たように思えた時、その他者に慈しみを向ける、その人の欲望に自分の欲望を投射する、重ね合わせる事もあるでしょうか。
そうするとその人は自分にとって他者ではなく、自分の一部のように思える大切な人になる。
欲望の主体同士が出会ってしまったように感じ、通じ合うのですから、それは言葉がいらない関係であると言えるのかもしれないですけど。
なーんていう、すごいどうでもいい話ですよねこれ、どんどん話しが逸れてるし、そしてめんどくさいし。
ああそうそう、時々言っておかないと・・・・・僕は無神論者ですし、スピリチュアルの文脈とも関係ありません。

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