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言語の戯れ

2017年04月02日 20:28

言語によってなされる、人それぞれの思考。
言語があるからこそ思考できるのでしょうし、それなしには思考しようがない、思考がなければ辛くなる事もないのかもしれないけれど。
言語を排除した中で生きてゆけるのかと言うと、これは難しい事、思考を欠いた中で本能で生きるしかなくなる、それは退化した本能を呼び覚ます手続きも必要になってくるのでしょうけれど、それで生き延びられるとも思えない。
思考とは、言語の戯れでしかないように思えてしまう時もあります。
言語の容れ物でしかない僕ら、身を守る為、生き延びるためには、言語を受容し続けるしかない僕ら。
生きるという事は、言語の戯れに耐え続けるという事。
そしてそれは辛い時もありますが、時折りとても楽しい場合もある、それぞれの人に様々な明確な経験をもたらしてくれる。
・・・・・・・・発育に伴って、様々な言語が獲得される、というか否応なしに自分に入力され続ける。
その入力された言語によって思考する、自分の意思で思考しているようでいて、多くの場合、現実を曲解して、それは妄想的空想的に、自分なりにというよりは、自分に入力されている言語に基づいて、その言語が勝手に戯れだすかのようでもあり、いってみれば自分の意識や理性の管轄外で。
自分という容れ物に入っている言語が、ある意味勝手に戯れだす。
その現象の行きつく先は「人生とは、一貫して、言語の戯れである」とか。
その戯れを一喜一憂しながら傍観しているのが、言語によっていつの間にか自分の隅に追いやられてしまった、消え去りそうな・・・・・・自分、なのかもしれないもの。
という極端な話でした。

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