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誤作動する主体
2017年07月13日 09:00これは、よく分からない、ほんとよく分からないのですが。
学生生活の中で様々な知識をインストールされる、それは社会に出て、その社会で自分が社会の要請に合わせて適切に作動する事が出来るようになる為に。
そして就職を果たし、どこかの会社に入社すると、今度はその会社の社風や理念や仕事の仕方をインストールされる、それもその会社の要請に合わせて適切に作動する事が出来るように。
自分にインストールされたものに疑問を抱かずに、プログラム通りに作動する事が出来れば、それは自分は適切に作動しているという事なのか。
という事はそれは逸脱する事なく、正確に作動している状態と言う事でいいのか。
その時、自分の意思というものは、インストールされたプログラムに同一化しているというか、そのプログラムそのものが自分の意思であると、そういう事でいいのかな。
何の疑問も抱かない中で正確に作動できる主体、社会の都合に合わせて作動する事が出来る理想的な主体。
となると、その社会というものはどのように発展するのか。
社会が発展する為には、規定のレールだけではなく、社会の想定内のレールだけではなく、さまざまな方向へ、それは社会の想定の枠外へ、なにか新しいものが進んでゆかなくてはいけないのかもしれなくて。
世の中というのは、予見不可能だからこそ発展するのだとしたら。
社会の想定内で用意された、その社会に適応するためのプログラムを入力され、それに沿って正確に作動するという事は、そこからは予見不可能なものは芽生えようがないという事。
予見不可能なものを芽生えさせ、社会を想定の枠外へ発展させるのは、入力されたプログラム通りに作動しなかった主体。
という事はそれは社会からしてみたら、誤作動する主体、誤作動する、それはレールを逸脱する、レールを逸脱してその主体が独自に書き上げたプログラムで作動する主体、社会の想定の外側で、社会が用意したプログラムに反して独自に作動する、それは誤作動する主体。
誤作動する主体が、社会に新たなものをもたらす・・・・・・とか。
いやいや、よく分からない、ほんとよく分からないのですが。
この文脈から「自分らしさってなに?」とか考えると、これはそう、どうしたものか、考え込んでもしまいますが。
勿論、極端な、一つの偏った見方でしかありません。
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