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誤配物に見い出す可能性

2018年04月01日 11:14

書き手は、その文章をどういった類の人に読んでほしいかを想定してパブリックスペースにその書かれたものを提出するのか、もしそうなのだとしたらその態度は傲慢に接近しはしないか。
想定している人物像以外に読まれる事は誤配という事になってしまう、そもそもパブリックスペースに提出された時点で誤配も何もない訳でしょうし。
誤配を避けたければ自らが鍵のかかった空間を作り出し、その空間にエクリチュールを提出すればいい。
なんか違うな・・・・・・・・思いつきで勢いで書き始めると文章があらぬ方向へ突き進んでしまいます、こういう事ではなくて、誤配、そう、誤配・・・・・・・・今の時代は誤配はあり得ない、仮想空間が発達して誤配という言葉が排除された、とか思ったのかな、よく分かりませんん、思いつきなので。
書き手から見た場合には誤配という言葉は排除されているけれど、読み手からみると、未だ誤配は存在する、チラッと見てこれは誤配であると掃き捨てるという事は日常茶飯事。
情報を求めて検索する、そこで自分が求めている情報以外の情報に出くわす、それは自分が求めているものとは違う誤配物でしかないように感覚してしまう、ノイズと認識すればそれは瞬時にノイズに成り下がってもしまう。
発信元、受け手、受け手が誤配と切り捨てる事は多々ある、自分が求めている以外の情報、掃き捨てる、スルーする、ゴミ箱に読まずに投げ捨てる。
いくらでも情報を発信できる世の中な訳ですから、多くの情報が読み手にとっては誤配と認識される、情報の選別、ただ発信元にしてみると、その情報を広める為には積極的に誤配を逆手に取って効果的に活用するのが得策、発信元の情報、固定客はその情報を待ちわびている訳ですから勿論歓迎される、興味のない人には誤配としか認識されない・・・・・・そこで誤配と認識されずに興味を抱いてもらうには、的な。
なんかこれだとマーケティングみたいな話ですね、こんな事を思った訳でもないのですけれど、ただ、誤配の中にこそ新たな出会いが隠されている、みたいな事を思ったのかな。
・・・・・・・・・まあいいです、僕は数十年前、フロイトなのかユングなのか、僕はより厳密なように思えたフロイトを手に取りました、ただ時代の流れの中でそれはそのままだと、古典であるかのような、そんな感覚にもすぐになった。
フロイトの解説の中にほんの数行、ラカンについての記述を発見し、その時僕はフロイトの情報を求めていた訳ですから、ラカンについての記述部分は誤配でしかない、誤配と認識してスルーしてもよかったのかもしれません。
ただそうはならずに、そこに記述された「フロイトを推し進め洗練させた」だったか「対象a」だったか、なのかそんなような言葉が微妙にひっかかってラカンの分かりにくさに没入していった、その後ラカンを経由して、フーコー、デリダ、ガタリ、ドゥルーズ・・・・・・、全部誤配といえば誤配、目にした瞬間にノイズと切り捨てることも可能だった、そんなものばかりで今の自分は構成されている、マトゥラーナも誤配だったし村上隆も誤配だった、最近ではナナブンノニジュウニという楽しい誤配もありましたが。
もし数十年前の誤配を手に取っていなかったとしたら、自分の今の形は間違いなくなかった、と思うとゾッとします。
求めているものだけを求めるだけでは深まりはするのかもしれませんが、いずれ行き詰まるのかもしれない、求めているものを求める中で出会った誤配物こそが、自分を推し拡げてくれる。
僕の事などはどうでもいいです、それはおいといて、ただ一つ、誤配やノイズに敏感になれば自分の世界は広がるのだし、そこは広大な可能性の場。
なんか最後まで何を言いたいのか分からないままに・・・・・・・。

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