
神奈川県藤沢市城南 東海道線沿線のカウンセリングルーム。辻堂駅より国道一号線方面へ徒歩12分。10:30~21:00、年中無休。
象形記号的
2020年01月14日 21:04心という曖昧な概念を排除した時、確かに自分にあると感覚可能なのは無意識でしかないように思います、無意識とそして、その無意識から浮上してくる思考もしくは象形的記号、その記号を映し出すスクリーン、スクリーンの象形記号を意識した瞬間にそのスクリーンが自分の意識であると認識される。
無意識には自分が経験した全てが言語として集積されている、入っているのではなくただ単に集積、自分という引力に引き寄せられ続けている言語、これはちょうど地球という引力に引き寄せられている空気と同じような格好で。
だから自分の無意識に明確な内と外を区別できるかというと、そういう訳でもない、自分の無意識が他者の無意識とリンクする事だってある、カウンセリングや力動的精神療法や精神分析の転移はその効果でもあるのでしょう、あとは、昔から言われる虫の知らせなんかもそうなのかもしれません。
常に何かを経験し続けている自分、その自分が常に何かを思考しているのかというとそういう訳ではない、ぼーっとやり過ごしている事も多々ある、そんな時も無意識は何かを感覚し、丁度コンピュータのバックグラウンドのように、自分の、まだ意識とは認識していないスクリーン上に、僕の場合はこの状態の時には何らかの数式の羅列ようなものが高速で左から右へ流れ続けているイメージをいつも抱いているのですが、これは多分無意識が勝手に何かを思っているという事、そのまま意識されずに言語化を免れた数式は夢として自分に消化される、無意識の形成物としての夢・症状・機知・錯誤、夢は無意識の代表物ですからね。
コミュニケーション、他者との会話、会話を交わす時にはこのスクリーンに高速で流れ続ける数式を言語に変換する必要がある、ただし、一つの数式がそのまま一つの言語に変換出来るのかというと決してそういう訳でもなく、その時のコミュニケーション事情によって変換される言語は多岐にわたる、数式に意味を与えるのはその場の空気でありニュアンスであり、そして自らのナルシシズムであるという事実。
多分実は、常に言語が湧き上がっているのだとは思うのですが、それが自分に都合のいい言語なのか不都合な言語なのかは、湧き上がる言語を明確に意識しなくては分からない、自分にとって不都合は困る、だからまずは隠蔽する為に言語を数式にもしくは場合によっては象形に変換する、不都合を予測した時にはその数式が流れ去るままに認識うぃ放棄する・・・・・・・・・・・・・このまま書き続けるとキリがないからもうやめておきます。
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