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退屈するという事
2017年03月19日 09:15本来、退屈というのは、退屈することが出来る時間を持てるという事は、贅沢な事である・・・・・・・・という話を聞いた事があります。
生きるために、自分が生存し続ける為に、割かなくてもいい時間。
だから、当面の生存が保障されたように感じる事ができて、その上で何もする事がない時間を持てる、となると、確かにその時間というのは贅沢な時間なのかもしれないです、生存の為にあくせくしなくていい時間な訳ですから。
生存し続ける、これは衣食住の確保と、あとは、社会的に自分が認識・承認され続ける事、これが機能しない事には、それは社会的な死にもつながりかねない訳で。
生命を維持するという意味での生存と社会的な生存、この二つが確保された上で、それでも余剰の時間を持てる。
退屈することが出来る、暇を持て余すことが出来る、確かにこれは贅沢な事なのかもしれません。
物理的・社会的に、どの程度で自分が満足するのか、という事にもよるのでしょうが。
・・・・・・と書きながらも反面、なんで満足なんかできるのだろうか、みたいな考えも浮上してきてしまいます。
これは野心との兼ね合いという事になるのだとは思いますが。
やっぱり、やれるところまでやったらいいし、自分の可能性に執着し続ければいいし、退屈していたところで楽しい訳でも充実感を感じられる訳でもない、それは、やる事がないのだから当たり前ですけど。
野心というエネルギーは、それを抱いている人を目標に向かって下から突き上げる、衝き動かす、それは生きている実感にもつながりますしね。
チャレンジ、打開、こうなりたい自分、こんなもんじゃない自分、目指すところがある自分、野心という言葉に顔をしかめる人もいるのかもしれませんが、生きてゆく上でとても大切なものです。
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