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過ぎ去り続ける埃っぽい記憶
2017年01月03日 09:08数年に一度くらいでしょうか、人が集まった時、それはお盆であったり正月であったりするのですが。
昨晩もそう・・・・・そういう時、たいがい昔のアルバム、写真を引っ張りだしてくる人がいるのですね、押し入れの奥の方から、埃っぽい記憶を引っ張りだしてくる。
まあしかし、どうなんですかね、若い頃の自分というのは、これは年齢的に10代20代とか言う意味だけではなくて、今の自分より若い自分という意味で、だから過去の自分の記録全てが対象になってしまうのですが。
みんながワイワイ写真に見入っている時、僕はなるべくそっぽを向いて知らん顔しているのですが「ほらっ、お前、見てみろよ、うわっダッサー」とか言われて、一応空気を読んで「ん~っ?」ってチラ見してみるのだけれど・・・・・・たしかに、そこには、埃っぽい記憶としか言いようのない自分が、ヘラヘラ笑いながら残念な仕草で、そして時には斜に構えて気取りながら、スベリたおしている、そう、これはもう、ざんねんな自分でしかなくて。
記憶というのは、時間と共にどんどん美化していってしまうという性質を備えているかのようでもあり、だから「あらっ、こんなんだったっけ?」みたいな、意表を突かれてしまうのです。
だいたいが、あれです、今より若い自分というのは、当たり前なのでしょうが、今の自分より顔にハリがありますからね。
その顔のハリから、生意気な自分とか、気取っている自分、なんとなくカッコつけてる自然ではない自分、そんな自分を連想してしまいます。
だからって今の方がいいのかと言うと、全然そんな事はないのだけれど。
ハリのある顔、目尻や口元がキリッとした顔、そういうものから、とんがった自分みたいなものを連想してしまうのかもしれません、まあ、実際にそうだったので、これは受け入れるしかないことなのだけれど、だからこそ、凹むのかもしれないですが。
でも、それでいいのかな、と思います・・・・・・昔は良かった・・・・などという事は思いたくもないし、今に絶望したくもないし、だから昔の自分を実感した時に「あいたたたぁぁっ」位で丁度いいのかな、と思います。
・・・・・・歩んできたという事実、それは過ぎ去り続ける今という経験の積み重ね、いまから丁度1週間後も、1か月後も、1年後の瞬間も、その時に居合わせた自分にとっては、今として刹那的に過ぎ去ってゆくしかないものなのでしょうし、もしそうなのであれば、その時自分は何をしていたいのか・・・・・・・そうですね、今よりは少しでもマシでいたい、のだと思います。
今というのは、常に過ぎ去り続ける埃っぽい記憶、ただしこれはオプティミズムの文脈において、とか。
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