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過去を振り返る時
2016年08月19日 21:07僕らは・・・・というか僕は、という言い方の方が適切のでしょうが。
まあいいです・・・・過ぎていった日々を振り返った時、思う事は、経験?出来事?たぶんそれは人生という言葉で言い表されるものという事なのかもしれませんが、その人生というものは、なにかこう、とり返しのつかないものの連続体として形作られているのではないか、という事は、実感として、僕らにとって唯一確かな事として、あるように思います。
成長過程において、いつの間にか「これが自分である」という意識が芽生えた瞬間から、取り返しのつかない経験の日々に絡めとられ始める、それは自分の意思に反してという事なのかもしれないけれど、そうあり続けるしかないようにも感じる中で。
突き詰めれば、「自分である」という意識が芽生える、それは論理的な説明の外側で起こる現象というか、単なる生命体でしかなかったものの中の一つに、何故か「これが自分である」という意識が芽生えた。
考えてみれば、なぜこの身体に限って、自分になったのだろうという説明すらも不可能なようにも感じる、この不思議な現象の中で。
なにもこの身体ではなくても、なぜ100年前のあの人じゃいけなかったのだろうかとか、50年後の誰かじゃいけなかったのだろうかとか、隣町に住むあの人じゃなくてなんでこの身体に限って自分という意識が芽生えたのか・・・・・全く意味が分からなかったりして、そしてただその事実を受け入れるしかない事であるかのような。
なんかすごく話が逸れていますが、そもそもの始まりとして、自分という意識がこの身体に、あるタイミングで芽生えた、という取り返しのつかない事実というのが根底にあって。
あぁ、こんな深い話をしようと思った訳ではなくてですね・・・・・。
僕はよく思います、常々思います、時間は否応なく過ぎてゆくにも関わらず、なにか自分がその時間の経過に追いついていないというか、たぶんそれは、過ぎてゆく時間を犠牲にしてでも、自分の想いを通したい、全うしたい。
う~ん、なんか言いにくいことは相変わらずややこしい言い回しになってしまいますね。
なんていうのかな、思考や理性では、あっちに行った方がいいのだろうな、あっちを選択した方がいいのだろうな、という事は分かりきっていたとしても、感情の部分がそれを否定しているような、納得いくまで今の場所にいたいような、それは最終的に失敗に行きつく事が予想出来ている中でだとしても、それでも敢えて失敗を経験して、自分を納得させてからじゃないと、先に進みたくない、方向を変えたくはない、そんな感じでもあり。
まあ、なにをやるにも回り道しながら、そしてそれは時間を無駄にしているようでもあり、自分の愚鈍さのなせるものでもあるようでもあり、あとからその自分の経験を振り返った時、もっと効率よく、などという言葉も浮かんできて、それは取り返しのつかない多くの時間の集合体であるかのようでもあり、振り返った過去の経験に点在する「やっちまった感」の集合体、そうだ、集合体なのですから、点在ではないですね、じゃあ、自分の過去は「やっちまった感」で出来ている、という事で。
なんか、あんまり長くなりすぎてもあれなんで、というか思いっ切り長い文章になってしまっていますが。
僕は、愚鈍な故に、理性だけでスマートな選択をする事が出来なくて、自分で経験して納得した上でないと先に進みたくはなくて、それは本当に効率の悪い事でもあって、ひーこら生きてきている中で、そんな自分の過去の経験を振り返った時感じるのは、やっちまった感であったり、人生って取り返しのつかないことの連続体なの?・・・・・みたいな事。
そこに想いが及ぶ度に、自分の経験を後悔するわけでもなく、否定するわけでもなく、自分に意味を見出して、それはこれからも歩き続けるためでもあるのだけれど。
だから、思うに、どんなに挫折した時でも、過去に囚われて後悔の念に自分が捕り込まれてしまったように感じた時でも、しばらく休んで、まずはまた歩きだそうという気持ちが芽生えてくるまで。
別にそれは、一人で頑張る必要もない事でもあるし、もしかしたら後悔の念に囚われている時というのは、自分の精神の奥の方からの「少し休ませてほしい、ちょっと休憩して置いてきたものに目を向けて欲しい」というメッセージなのかもしれないし。
取り返しのつかない連続体であるが故に、それなりに否定的ではない意味を持たせて、納得させて、また前を向いて取り返しのつかない日々を歩き続けるために。
歩こうと思えるようになる為に、肯定的な意味を持たせる為にもエネルギーが必要ですし、充電、立ち止まることも、大切ですよね。
逆に考えると、どうしても否定的な意味を見出してしまう時というのは、精神の奥の方が「休憩したい、ちょっと休ませて」と言っている時であるとも言えるのだと思います、頑張りすぎてきたのかもしれないですね。
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