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違和感と共に生きる

2018年01月08日 17:39

成人の日とか書いたものですから、なんとなく多少はノスタルジックにもなる、ちょっと、片目で薄目で振り返ってみたくもなる、そんな事をしたっていい事はないのは分かっているのですけれど。
10代20代30代・・・・・・何かしらの社会的立場を得たとしても、特に感慨深い訳でもなく、達成感や満足を得た覚えもなく、空虚な感覚、虚しい感覚、そこで常に自分につきまとっていたのは、漠然とした、言語化不可能な、輪郭のはっきりしない違和感のようなもの。
だから30代までの人生の、その時その時で得たもの、それらは自分の意味ではなかったという事でしかないのだと思います、だからこそ容易く捨て去ってきたのでしょうし。
違和感、自分の本質とのズレ、ある種の大きなズレは感じていたでしょうか、それなりの、努力と言い表される行為や、勢いや流れや偶然によって自分にもたらされた、社会的にはそう悪くはないもの。
これは、自分はこれをやりたいとか、これになるのが自分の使命とか、これになる為に生まれてきたに違いない、とか思う中で手に入れたものにしても同じ、いざ手にしてみるとそこには、違和感や空虚しか存在しない、という事態の繰り返し、延々と。
でも、諦めと共に生きるという工夫をしない限りは、そんなものなのかもしれないですよ、たぶん。
自分が何者なのか明確に分かったという方が、言ってみればオカルトなのだし、だから試行錯誤、暗中模索、トライアンドエラー、分からない事に耐え続ける、これの繰り返し、どこかで自分に出会えるまでは。
そう、これは、というかこれだけは、あまり考えたくはないのですが、やり過ごしていた感覚もない事はないです、特に10代から20代までの間は。
真剣に自分に向き合う事も避けていたのかもしれません、ただ時間の過ぎるのを、楽しい事に目を向ける中で、もしくは時には何もしない中でただじっと。
これは無駄な時間を過ごしてしまったという事なのか、それとも今の自分に生かされている、それなりに貴重な経験だったのか・・・・・・・貴重な経験だったと思いたいですけど。
違和感、違和感というのは、もしかしたら自分の本質のような場所からのうっすらとしたメッセージなのかもしれないですね、ズレていますよというメッセージ、ただそれはあまりにもうっすらとしているので、ひもとこうとすればするほど自分の意識から逃げてゆく、といった厄介な代物なのかもしれない。
仮に暗示的に、ひもといたような形態をとったとしても、そしてそこに向かって突き進み何かを手に入れたとしても、そこでは一瞬の喜びや達成感の後、違和感を感じるのかもしれません、これは能動的な分、余計に虚しさが募りそう。
だからこそ、流れの中での生成に身を任せるという覚悟が必要なのかもしれないし、そういう態度だけが、いつか本当の自分、しっくりくる自分、そういう自分に出会わせてくれる可能性があるのかもしれないなと思います、これは少しドゥルーズ的な。
僕自身は、この年になってやっと、少しだけ、しっくりくる自分に近づけたように感じなくもないです、ただこれも20年後に振り返った時、勘違いだったと判明する可能性が全くゼロだとは言い切れませんけれど。
30代半ばくらいからでしょうか、なんとなく流れの中で、常に自問自答し始めたの「これはお前なのか?」と。
いまはこの質問に対して少しだけ、自信を持って答えられます「当たり前だろ、バーカ」みたいに。
違和感を感じるのはいい事、判断し、判断したら迷わずに自分を流れに放り込み続ければいい、そこではまた新たな何かが得られます、生き続けるってこんな感じ、という一面もあるのだと思います。


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