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郵便

2017年05月31日 20:20

毎日強迫的に書き続けているブログ、多分もうルーティンと化しているのでしょうし書かないと気持ち悪いようにも思ってしまう中で、ただ・・・・何故書き続けているのか、その目的は・・・・・・戦略的集客という訳でもなく、悩める人に向けた分かりやすい一言を書く訳でもなく、自分をよく思ってもらいたい訳でもなく、読み手がカウンセラーに求めているであろう気の利いた言葉を提出する訳でもなく、自分が慈愛に満ちた素晴らしい人間であるとアピールする訳でもない。
多くのものが、ただ唯物論的に、その時にうっすらと感じている観念様のものを、勢いに任せて言語化し、それを書きつける。
自分で過去に書いたものを読み返した時、まずはその時のコンテクストを思い起こさないことには、何について書かれているのかさえ分からないようなメタフォリカルな記述も多い。
わざと分からないように書いているのか・・・・・だとしたらそれを毎日強迫的に書くことの目的は・・・・・分からないように書く事によって常に何らかのメッセージを発信しているかのようでもあり・・・・・そのメッセージというのは・・・・・「そもそも、書かれたものが届くとはどういう事なのか?」という疑問。
多分、無意識的にいつの頃からか今の自分のブログのスタイルが成立してしまっている訳で、そこに何らかの理由付けをしようとした時には、なんとなく、こんな感じでしかないような気もします。
もしくは自分の症状として、それは古典的ヒステリーにも近い症状として、時代と共により効率化された郵便に対して抗っているだけなのか、抗うには郵便の中に入り込んだ方がいいのでしょうし。
普通は仕事に通じるような戦略とか、そこまでではないにしても癒しであったり人が求めているであろう情報を敏感に察知して読者を増やして、みたいな事が正統なのでしょうけれど、どうも読み返してみるとそういう書き方はされていない、という事は、やっぱり、上記のような理由で書き続けているのだと思います。
そうする事が何の利益になるのか、そこに生産性はあるのか、たぶんそういう事を度外視する事自体が目的なのかな、とも思います、あたかも症状であるかのように。
その症状というのは、書く事によって「書かれたものが届くとはどういう事なのか?」と言い続ける事。
まわりくどい焦燥としか表現しようのない、なんらかの有用な結論に達する訳ではない、情報量は皆無のようで実は氾濫錯綜しているだけであるかのような、特に役に立つわけでもない独り言レベルのスキゾ的文字の連なり、ではそんな文章を書く意味があるのか、書かないという事は「・・・・どういう事なのか?」と問い続けないという事なのだから、だからやっぱり、書く事によって・・・・・・・・・・・・と、延々とまわりくどい意味不明な文章が続きそうなので、ここらへんでやめておきます。
読んで頂いている方、いつもすみません、どうもありがとうございます。
・・・・・テキストなのであれば、それは書かれたとおりに理解されるしかないのでしょうが、そうですよね、教科書があって試験があって、やはり教科書は書かれたとおりに誰もが同じ理解をしなくてはいけないのでしょうし、しかしそれ以外の書かれたものというのは、書き手の想いがそのまま読み手に伝わるのかというと、決してそんな訳にはいかなくて、やはり読み手なりのフレームで、書き手の意図を曲解し続けるしかないのでしょうし、そしてその効果として転移が発生する事もあるのでしょが、また、書き手が自分の素晴らしさを伝える為に書いたとしても、それがそのまま伝わる訳ではないし、そもそも本当に伝えたい事なのかとか、その言葉を伝える事によって読み手に何をさせたいのかと・・・・・・・・すいません、きりがないですね。
高効率の郵便に抗う、というのもやはり何となくポイントであるようにも思えます。
「何故意味が分からないような事を書くのか?」・・・・・・この問いには即座に「分かりやすく書く事によって人からどう思われたいのか?よく思われる事によって自分が満たされたいのか?」「人から良く思われるための文章を捏造するのか?」「その分かりやすい言葉は誰の受け売りなのか?テキストのコピーなのか?」・・・・・問いの差し戻し、みたいな。
この文章にしてもそうです、多分、いつか自分がこの文章を読み返した時、書いてある事の半分位はなんとなく理解できるのかもしれません。


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