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闘争と愛、その先に存在する調和

2018年01月20日 11:04

部屋の窓を開け放ちガラムのメンソールをくゆらせながら、瞳孔の開き切った遠い目でうっすらと曇天を眺めていたその時・・・・・・・・要は精神の輪郭がぼやけて朝もやに溶け出しているかのような、弛緩しきってボーっとしている状態という。
「闘争」と「愛」という言葉なのか観念なのか、ニュアンス的には何故かイコンにも近い様な、おぼろげなものを何となく眺めていたある瞬間、その向こう側に「調和」という言葉がハッキリ見えたという、まあ白昼夢に近いような感じなのかもしれませんけれど。
調和というのは、闘争と愛のその先に存在するものなのか、闘争や愛を経由する事なしには調和は経験できないのか・・・・・・多分できないのだと思います、自分が傷つかない為の見せかけの調和は演じることが出来るとしても、それは真の調和ではない。
満足がゆくまで社会の中で闘争を続け、自分を試し続け、そこで達観できた後に、あと、愛はこれは勿論性愛も含めてという事ですが、さまざまな経験を通して自分なりの納得を得ることが出来た後に・・・・・満足や達観だけではなく、時には諦観と言う場合もあるでしょうが、闘争や性愛に疲れ果てた後に、要は欲望を抱き続ける事に疲れ果てた後に、調和の領域へと足を踏み入れる・・・・・・・という事は多分無理だと思う、僕らは俗物的な人間、煩悩の塊ですからね。
自分を一切試す事ないままに何の満足も得ない中で、その煩悩を覆い隠して調和の世界へ足を踏み入れる、という事は調和を演じる、それは自分が表面上傷付かない為、これはあくまでも表面上でしかないのでしょう、そこでは何が起こるのか。
ちょっと話は逸れますけれど、SNS上でお互いを承認し合う、相手を承認すると相手から承認のお返しがくる、コメントやメッセージも相手が気持ち良くある事が出来るような言葉を細心の注意を払いながら、一切傷付け合わない完璧な相互承認システム、ただこれは表面上の承認の場合も多々ある、その表面をそっと引き剥がした時そこに渦巻いているのは様々な、羨望を初めとしたネガティブな思い、という状況は既に一昔前の現象になりつつあったりもして、いまはその完璧な相互承認システムの上っ面を、これはそう、上っ面だけで器用に生きる工夫がほどこされ始めている、平坦な世の中。
平坦を器用に生きる時、その平坦に描写しきれなかった想いというのはどうなってしまうのか、もしくは人間の在り方事態が時代に合わせて、平坦に考えるようにフレーム付けされてきているのか、何も取りこぼす事のないような広大なスクリーンを各自が保有していて、自分の全てを積極的にフラットに映しだす事が可能であるとか・・・・・・・そういえば、世界系というのは素晴らしい発明だと思います、自分から世界までを一気に描写可能なのですから、一切何も取りこぼしている認識はないのでしょうし、取りこぼすとか取りこぼさないとか、それはそういうふうに意識してしまった瞬間に芽生えざるをえない感覚であって、だから始めから世界系できっちり行ってしまえば、その方がいいのかもしれないし。
すみません、あちこちに話しが飛んでしまいました、特に何を言いたい訳ではありません。


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