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限りなくエロースに接近する果実

2018年04月21日 11:14

あんまり果物というのは食べない、男は大体そうなのかなと思いますけれど。
食べるとしても、せいぜい食卓に置いてあるバナナとかリンゴくらいなもの。
スーパーで苺や桃を目にしても買って帰ろうとは思わないし、500~600円位するのでしょうし、だったらポテチやカップラーメンとか買ってしまう。
普段あまり果物を食べないからこそ思うのかどうなのか、あの完熟を売りにした果物、完熟○○というのは。
完熟、なんとなく酸味を抑えて甘みを増すように作られているかのような、ちょっとジューシーとは違うイメージもあります、みずみずしくないようにも思ってしまう。
果物本来の魅力、これはやはり酸味に由来するフレッシュさやジューシーさ、シャキーンとしたみずみずしさ、ほとばしる果汁、なのかな、普段食べないからよく分かりません、単なるイメージで。
どうやって食べるのが一番美味しいのか、一番美味しく食べられる方法、丁寧に皮を向いて、上品に一口ずつ口に運んで味わう、という方法ではないようにも思います。
かぶりつくのか? 高揚感と共に一か所だけ、唇が直接内部に触れる程度に皮をせわしなく剥ぎ取り、そこに口を押し付け最初は軽く歯を立てて果肉という果物の内部を優しくえぐり、そこから唇や舌を侵入させるという仕方で溢れ出ようとする一切のみずみずしい果汁を逃さないように味わい尽くす、もさぼり奪い尽くすかのように、対象は手でしっかり固定したまま首を少し左右に振りながらより深く果肉の内部へ侵入を試みてもいいんじゃないでしょうか、と言いますか、この果物って何? とも思いますが、単なるイメージです。
果物、木、木になる果物、それは木からもいで食べるのが正しいのか、どうもそれすらも果物を食す醍醐味を損なう行為であるかのように思えてしまいます、その果物を生成したのは他でもない、木なのですから、果物は木の一部であり木の所有物。
果物を木からもいで食す時、その美味しい果物に感謝の気持ちが芽生える可能性は十分にあるとは思うのですが、そのくだものを生成した張本人、木に対する感謝は芽生えない。
であれば木からはもがないで、木になっている状態のままの果物に上記の仕方でかぶりつき、木そのものに感謝を表明しつつ、果汁や果肉を味わい尽くすという、作法、だからこの果物って何なのでしょうか、たぶん、これはパラノイアックな果実、という事なのだと思います。
そういえばよく、植物は慈しむと綺麗になるとか、綺麗だよと声をかけ続けると本当に綺麗な花を咲かせるとか、枯れずに長く生き続けるとか、そんな事も言われます、人の期待に応えるかのように言われている。
もしそれが真実なのだとしたら、木になったままの果物をもがずにかぶりつく時、なにか声をかけるといいのか、でも夢中で唇や舌を押し当てているのですから語りかけるのは難しいですね、であれば、そう、ウイスパーボイスでささやきかける、感謝を述べ続けながら夢中で味わうのがいいのか、感謝、感謝というよりはもっと確固たるもの、奪い取る訳ですから、執着・・・・・愛だな、愛をささやきながら、ウイスパーボイスでその果実の本来の持ち主である木本体に対する愛をささやきながら、そして木に対する、というか幹に対する身体的接触、幹に優しく振れ続ける、幹を愛撫する、フェザータッチも忘れずに。
そうする事によって木は、自らの生成物をよりフレッシュに、ジューシーにほとばしるという形で、奪おうとするものの愛に、より大きな愛をもって応えてくれる、という事は可能なのでしょうか。
なんとなく、魅惑の果実というのはこういう仕方で味わうのが一番いいように思えます。
・・・・・・・・・そうですね、たぶん、メタファーとして読み変えられるような気もしてしますが、果実というのはいつの時代も、限りなくエロースに接近してゆくという事なのでしょうね。
ところで、思うに言葉などというものはコンスタンティブなごく一部の領域以外は、殆どがメタファーでしかないようにも思えてしまいます。
そして、コンスタンティブをキッチュに装ったメタファーというのも、あったりもするんじゃないでしょうか。


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