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陽炎の点滅

2018年10月16日 09:49

・・・・・・・・・・振り返れば、学生の頃や社会に出てからの折々に、なにか頭の片隅にはなりたい自分的なヴィジョンがチラつきはしつつも、ただ、そこを直視して明確にするという事は・・・・・・・・という事実は存在したのかどうなのか、もしかしたらこれはただ自分が、自分は学生の頃からある一つの目標のようなものを持っていたのだと思い込みたいだけではないのか、そして長い年月を暗中模索紆余曲折しつつ、なんとか辿り着く事が出来たというナルシシズムに基づく自己肯定でしかないのかもしれない、というかきっとこれは断言した方がいい、単なる自己肯定の身振りであると。
自分にはそんなような、そこに向かって激しく行動しなくてはならなくなるがゆえに見て見ぬふりをせざるをえない理想などは一切なかった、そこにあったのは実は空虚、空白の自分という存在の無意味さにほかならなかった。
ただ、そんな中でも、ある一つの潜在性が蜘蛛の糸のようなごく僅かな頼りない可能性をうっすらと、陽炎のように腰の引けた主張として点滅させてはいた。
その陽炎の点滅には一切の輪郭はなく、そして実態もなく、儚く頼りなく生気すら感じられないほどに。
その点滅は、自分が点滅を意識しない中で、その点滅が何者なのか暴く事の億劫さに、放置という手段に甘んじている中で点滅の枠外で何らかの経験をする。
経験はフィードバックされる、経験を重ねれば重ねるほどフィードバックも増えてゆく、その多数のフィードバックが刺激となって陽炎の点滅が徐々に、ごく僅かずつ何らかの形を成してゆく。
輪郭が徐々に明確になったどこかのタイミングにおいて初めて、自分が何者になりたかったのかという答えのようなものが、見える。
いやしかし自分でも言っている事が観念的すぎて、なんだかよく分かりませんが、たぶんこんな感じでしかないのだと思います、僕の場合は。
頭で考えたなりたい自分という事ではなく、本当の意味での、感情とか衝動や激情に基づいた、喜びの中においてのなりたい自分というのは、僕の場合はこんなような大きな迂回を辿る事によってしか見出すことが出来なかったという事なのだと思います。
経験なのかなと思います、どんな事でもいい、無駄でもなんでもいい、よい事も悪い事も全てひっくるめて、とにかく一つでも多く何かを経験して自分の空白に刺激を与える事によってのみ、本当の、自分を騙し納得させる努力すら必要のない、なりたい自分というものが徐々に形を成して、読み取れる位に鮮明になるのか。
これは、なりたい自分になったらそこで終わりという事ではなく、そのなりたい自分になった後も経験は続く訳で、その新たなフィードバックがまた新たな刺激となって、そこでまた次のなりたい自分の輪郭が立ち現れてくるという、きっとその繰り返し、そんな中で自分はどこまに行くのかという事なのかなと思います。
思いつくままにただ書き連ねてしまったので、自分でも何も整理できていませんが、今ふと、こんな事を思いました。

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