
神奈川県藤沢市城南 東海道線沿線のカウンセリングルーム。辻堂駅より国道一号線方面へ徒歩12分。10:30~21:00、年中無休。
22/7 僕は存在していなかった
2017年11月24日 10:06ナナブンノニジュウニのMV「僕は存在していなかった」を見ると涙が溢れてくるのは何故なのか。
ただ、他の人に見せてもそれほど情動の変化はないようなので、この感覚は自分独自のものなのかもしれません、それか、世代的なものとか。
学校というシチュエーションと相まっているのでしょうが、登場するキャラクターの無垢さや儚さ、人間の持つ純粋な要素だけを丁寧に抽出して培養したかのようなセンシティブな魅力、直線的であるにもかかわらず豊かな情緒、まだ何も書き込まれていないホワイトボードという事なのか、もしくはまだ書き込むことに躊躇しているホワイトウォール、モラトリアムの輝き、穢れる事に対する躊躇抵抗、まだ経験していないからこそ想い描く事が可能な理想的に輝くこの先の自分。
今の自分には決して戻りようのないあまりにも美しい場所、そもそも自分はそういう場所に存在していた事があるのかどうかすらも定かではない、ため息の出るような、美しい場所、もしかしたらその場所というのはシミュラークルでしかないのかもしれませんが、それか、心的現実として想い描く事が可能である場所とか。
その場所からあまりにも遠くに到達してしまった自分、遠くに来てしまった自分とは、何かを達成した自分という事以上に、純粋さを喪失してしまった自分であるかのようにも思え。
様々な経験を通じて、純粋な存在である事ができなくなってしまった自分、顔というホワイトウォールに様々な意味性を書き込んでしまった、そしてそれは消しようのない、今となっては取り返しのつかない自分。
あまりにも純粋なものに触れると、その効果として自分の純粋ではなさばかりが前景化してきてしまうのかもしれません。
そしてその結果としての無常、二度と戻りようのない心的現実としてのキラキラと光り輝く愛おしい場所。
大きな流れに押し出されるように社会に出て、そこで様々な経験を重ねて、それはもしかしたら振り返らずにただ前だけを見据えて自己を形成し続ければいいのかもしれないですけれど、そうしているうちにどんどん穢れてゆく自分、純粋ではいられなくなってしまった自分、それは取り返しのつかない自分。
そんなような、言葉にしたくないように感じる観念的なものに飲み込まれるかのように涙が溢れてくるのかもしれません。
逆に考えれば、あのMVに接しても大きな情動の変化がないのであれば、それほど穢れてはいないという事なのかもしれませんね。
—————