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AUTRE

2016年05月23日 09:43

昨日ブログ書いている時に、ふと気がつきました。
昨日は万華鏡がキーワードだったようです、日中もそんな話をしたんで、昨日は万華鏡日和だったのかな。。
希望を見据える時、キラキラとした万華鏡の世界が想起される。
そしてその万華鏡のキラキラした世界というのは、自由で今を生きていて自分が大切という事にリンクしている。
というようなこっぱずかしい事を書いていましたね。
という事は、自由を実感して、今を生きていて、そんな自分が大切だと思えた時に、キラキラとした希望を見据えることが出来る、みたいな話にもなってくるんじゃないのかな、とも思うんですけどね。
うん、まあ、そうなんでしょうね、自由じゃないと希望を見出すことなんてできないですからね。
が、しかし、自由な選択とは、幼少期の万能感を捨て去らない限り不可能なんじゃないのかな、と思います。
万能感のもとで何かを選択するという事はできないと思う。
なぜなら、万能感というのは、文字通り自分は何でもできる、という思い込みな訳で、その思い込みを抱えたまま何かを選択するという事は、思いっ切り現実的には実現不可能なことを選択するという身振りにもつながってしまって。
でも実現不可能なものを選択している事は薄々感じていたりもして、そうなるとその選択したものを実行しても失敗する可能性がとても大きい。
そしてもし実際に失敗したら今度は万能感を保てなくなってしまう、できない事があると判明して今の自分のままではいられなくなってしまう。
と、意識の隅で計算した時なにも選択できなくなる、選択を放棄する、というジレンマ。
だから万能感の元ではなにも選択する事はできないし、希望を見出す事も出来ない、欲望できない、もし失敗したら大きく傷ついて今の自分ではいられなくなってしまうから。
となると「人は誰しも万能ではない」という事を受け入れた上でないと、自由に選択する事はできない。
自由に選択するという事は、無鉄砲や無軌道とは違う、勿論万能感とは相入れない。
自由な選択とは自分の意思による選択という事なんだけど、万能感を抱えたままだと自分の意思を発揮することはできない。

・・・・ちょっとタンマ、話がえらく逸れてやたらとややこしくなっているようです、こういう事を言いたかった訳じゃないと思うんですけど、また今度簡潔に整理して書こうと思います。
いつも考えながら書いている訳じゃないから、どんどん話しが逸れてやっかいなんですよね、自然に出てくること書いてるんで書き終わるまで話がどこに逸れるか自分でもわからんのです、でも考えながら書いても面白くないですしね、というか考えたら書けなくなるんじゃないのかな僕の場合は。
読みづらいダラダラとした文章をいつも読んで頂いてどうもありがとうございます。

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