記事のアーカイブ
2018年05月17日 09:46
自分の役割というのは一つだけではない方が楽しいのか、特に社会において、いくつかの役割を担っている、その役割に適したそれぞれ異なった自分が対応するという、本体から分割されつつ接続を保っている自分、なんですかこれは、キャラほどポップではなく、人格の多重性ほどヘビーではない・・・・・・モジュール、プログラムモジュールというニュアンスが近いようにも思えるのですけれど。役割により全く異なった自分が立ち現れ続ける、3つの役割を担っているのであれば3つの自分、4つの役割を担っているのであれば4つの自分、複数のプログラムモジュールを保有している本体としての自分。日常的なスタイルとして、役割の一つに徹する時間が
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2018年05月16日 20:11
なんらかの「論」が提出されると、その論はすぐさま「反-論」に出会う。「反-論」反論というのは大した意味はない、意味はないばかりか、せっかく新たに産み出された論を、殺してしまう。新たに提出された論、その論は何はさておき、共有され深められるべき。そして十分に深め発展させた上で、次に、当初には論の刺激によって「反-論」として芽生えたもう一つの別の論に移り、今度はそちらを共有し深め発展させればいい。新たに産み出された「論」そしてその論の刺激から産み出された「反-論」・・・・・・どちらも深め発展させた時、多くの共通要素を見いだせる場合もある。
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2018年05月15日 10:45
ワイドショーでIT社長の特集をチラッとやっていました。しかし世間一般がIT社長に対していだく「遊んでそう」とか言うイメージは、僕は意味が分からない、遊んでる人が起業して成功をおさめ続ける事が出来る訳もなく、又は、一時の成功に浮かれていたらその先で待っているのは失墜でしかない訳だし。ああ、遊んでる、確かに、世間一般で言う「遊んでる」ではなく、これは自分の人生そのものを、遊んでいる、というよりは楽しんでいる、味わっている、夢中になっている、冒険を楽しんでいる、自分を全力で試しつつ向上してゆく、それは間違いなく充実、充実しているとその人は生き生きとして見える、楽しそうに見える、飲みに行く事すら人脈を
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2018年05月14日 09:47
なりたい自分とか、なにかそういうものがあったとして、その自分を想像する時にはたぶんヴィジョンが湧き上がってくるのだと思いますが、そのヴィジョンというのは、なりたい自分になっている具体的な自分が一人で充実している映像である、という事はまずない。通常、なりたい自分になった自分の映像というのは、人に囲まれている、もしくは人と接している、そこでは人は笑顔でいるし、自分は誇らしげにとか謙虚にとか、なんらかのポジティブに包まれている。そしてそのなりたい自分を達成したのちも、次々に新たななりたい自分のヴィジョンが湧き上がり続ける、それはどこから湧き上がってくるのか・・・・・・・・勿論自分の本体から。僕らは、
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2018年05月13日 20:35
人の相談にのる、というのはとても難しい事なのですね。論理的すぎてしまうと、その人を追い詰める事にもつながってしまう。情緒的すぎてしまうと何も解決しないばかりか、その人を依存させる事にもつながってしまう。安心してもらう為の情緒、解決する為の論理性、バランスがとても大切なのでしょうね。だから、想像界と象徴界を行ったり来たりしながらというのが理想的なのだと思います。今日、昼頃から降りだした冷たい雨、今日の雨はあまり感じのいい雨ではないように思え。雨は様々な感情を呼び起します、激しく降っても優しさを連れてくることもあるし、静かに降っても苛立ちを連れてくることもあります。
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2018年05月13日 16:30
神社の鳥居をモチーフにした自動車のフロントマスクという事を思った時、デザインというのはどこを目指すのだろう・・・・・・とか頭をよぎりました。学生の頃、宇宙戦艦ヤマトに夢中になった時、僕はヤマトよりガミラス星のデスラー総統が乗っている艦のほうが好きだった、あのなんとも言えないヌメッとした感じ、アールヌーボーみたいな刺激、多分これはセクシャリティに対する刺激なのかな、分かりませんけど、ヤマトはカチッとしてましたし、直線的で力強く屹立していて、様式美的な美しさもあった、なんかアールヌーボー対アールデコとか子供ながらに思ったように記憶しています。そういえばガミラスの人達は皆肌の色が青かったですね、とい
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2018年05月11日 11:10
我を忘れて、全力で限界まで、もしくは限界など意識すらしない中で自分との窒息の戦いすら乗り越えてその先で・・・・・・・・などという事は今はまだしない、という意味においてのモラトリアムというのは、その人のいつまで可能なのか。たぶん、まだまだずっと可能、それは自分という、命でしかないものをまざまざと見せつけられるまでは、可能。だから、自分はいつか死ぬという事を本当の意味で実感するまでは、もしかしたらモラトリアムを浮遊し続けていられるのかもしれません、そう、タイマーのスイッチが入ったように感覚するまでは。自分の死を実感するまでは、というのは、それは言葉を失うしかない精神の痙攣に見舞われるとか、ラカンに
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2018年05月08日 10:01
「あなたに共感します、あなたを受容します、ただし・・・・・・・1時間5.000円で」さてこれは、どうしたものか、共感や受容、金銭が発生するから共感や受容ができるのか、金銭が発生すると判明した瞬間に全肯定の体制が整ってしまうのか。お金を支払って共感を得て無条件で「大丈夫ですよ」と優しい声で言われて、それで癒されるのか、安心を手にできるのか、甚だ疑問でもあるのですね、上辺のプレーとしては可能なのでしょうが、とか言ってしまうと身も蓋もないのは百も承知なのですけれど。思うに、無条件での共感や受容ほどわざとらしいものはない、今の時代誰がそんな身振りに安心を感じる事ができるのかな、と思います、なにが大丈夫
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2018年05月08日 09:36
CMで時々見かけます、コンピュータに話しかける、それも、何故かとっても爽やかに、フレンドリーに、そうするとコンピュータが音で応えてくれる、それは聞く人間を確かにコンピュータが発している声であると誤認させる中で、これはコミュニケーションなのか。そういえばチューリングテストというのは今でもあるのか、もしそれでより好成績を収めるコンピュータが現れ、その擬人化された彼もしくは彼女は人間側の意図を読み取り、決して期待を裏切る事なく的確に応えてくれる、となると今の時代の空気を読み続けて決して相手の期待を裏切らないように細心の注意を払い続けながら執り行われている人間同士のコミュニケーションと、さして変わりは
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2018年05月06日 19:23
怒り、憎しみ、悲しさ、さみしさ、自分の中から湧き上がってきた様々な感情。それらに向き合う事はちょっと、辛いことでもある、苦しくもある。ただ、それらの感情を見てみぬふりをしたところで、それが消え去る事はないのだとしたら、そこはやはり向き合うしかない、そのネガティブを積極的に味わうしかない。向き合えば飲み込まれる、それは近視眼的な中でそのネガティブが自分の全てであるかのようにも思えてしまうから。避けて通れないものには突入してゆくしかないのかもしれません。ネガティブが大きければ大きいほど、その突入の中で迷子にならないように、誰かに寄り添われながら。見て見ぬ振りが出来ないものなのであれば突入するしかな
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