記事のアーカイブ
2015年11月12日 21:22
自分を鏡でじーっと見るのが、あまりすきではありません。鏡の中にいる自分というのは、他人から見た自分というものに近いのかな。そして、他人はなんらかの判断をします。○○っぽい人・・・、といった。でも、それはあくまでもその方が抱いたイメージですね。いやいや、そういう事を言おうとしているんじゃないんです、う~ん、なんでしょう・・・。自分を鏡に映した場合、その鏡の中に映し出された人物の中に、自分の意思や思考を流し込みたくない?人が自分を見るのと同じような視点で自分を見たくない?イメージが独り歩きしないように、常に自分を引き寄せていたい?い~や~っ、ドンドンこんがらがってきました。人からイメージされている
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2015年11月12日 08:54
自分って何なんだろう? ほんとは何がしたいんだろう? 自分の本心が分からない・・・・、こういうのは自分探し的な事にもなるのでしょうか。僕も20代から30代にかけて、こういう事をさんざん考えました、その時は残念ながら答えを見つけることはできず、結局日常に流されていってしまいましたが。今振り返って思うのは、僕の場合は、あくまでも、僕の場合という事ですけど。それを考えた一時期(何度かあるのですが)、ただ、一旦立ち止まりたかっただけなのかもしれないな、と思います。日々、義務に対応するだけの自分に疲れて、煮詰まって、なんとなく納得いかなくて、ただ、立ち止まりたかっただけなのかもしれません。うすうす、今は
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2015年11月11日 21:08
○○の秋、食欲・芸術・スポーツ・読書・行楽・・・・、色々な秋がありますね。あと、ドナドナの秋、というのもあるかもしれません、ちょっとメランコリックになってしまう、といったような。これも自然な形なのかな、紅葉、落ち葉、どんどん寒くなる、これからこういう時期になっていく訳ですしね。楽しいことだけというのも勿論いいですけど、ドナドナも含めて全部の秋を満喫するのが一番いいのかな、楽しい+ちょっとだけ考える、人生の醍醐味みたいな感じ。食欲、読書は割と手軽、日常の延長ですね。芸術、スポーツ、行楽は、ちょっと重い腰をあげてアクティブにならなくてはいけない、普段から活動的な人には簡単な事なんでしょうけど。芸術
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2015年11月10日 20:43
家で一人で何かやっていて、または何もやっていなくて。何もやっていなくても、うっすらとした思考はグルグルしていますが。そうこうしていると、だんだんと煮詰まってきて精神も疲弊してきて、あんまりいい事は考えないですね~、身体も動かさないからハリやコリも目立ってくるし。そんな時、気分転換間しようと窓を開けて外の空気を取り入れつつ外を眺める。僕はこれがあんまりうまくできません、一瞬頭部はスッとしますが、どちらかというと、思考が閉じている自分、外界から遮断されている自分というものが際立ってしまう。室内という閉じた空間の中から、外を見ているのですから当然といえば当然なのかもしれません。とじた空間という事から
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2015年11月10日 08:49
「あーっ、桃ちゃん久しぶりっす~」「鬼退治とかマジ勘弁っすよ~」このCMが、すっごく気になってます。なんだろうか、あの鬼ちゃんの軽さに(しかし一本芯の通った自分の価値観が確立されているような感じに)クスッとなごまされます。軽薄な訳ではないんですね「自分イクメンっすよ~」って言ってましたし。ああいう軽い感じに何かを脱ぎ捨ててみると、どこかふっ切れたりして楽になるのかもしれないな、なんて事を思わせてくれます。一旦、なにかを脱ぎ捨てるつもりで、軽さを表現してみると、逆に大切なものがあらためて見えてきたりして、今度はその見えてきたものを纏おうとするのかもしれません。一旦脱ぎ捨てて軽くなっているんですか
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2015年11月09日 21:08
一番身近に感じる事が出来る幸せってなんですかね?食べたいものを食べている瞬間?欲しいものを手にした瞬間?う~ん、だから、求めたものを手にした時、みたいな事?なんか????ばっかりになってしまいましたが。確かにね、ものは欲しがるとキリがないですけどね。それに気が付いて、人とつながって情緒的なやり取りをする事に幸せを見い出すという流れもあるのかな、なんて事を思いました。こういうのって、成熟の証しなのか、人の本質的なものなのか。
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2015年11月09日 20:53
学校の校庭で流している音楽って当然近所中に響き渡りますから、だいたい定番クラシックが多いのかな、無意識に口ずさんだりもしてしまいます、そして、いい気分にもさせてもらえます。今日、近所の小学校でシューマンのトロイメライが大きな音量で流れていました。トロイメライは僕は時々ウオークマンで聞きます。理由は、過ぎ去った幼少期に想いを馳せるため・・・、ノスタルジーでしょうか。子供の情景の中の一つの曲なので、それは自然な事かなと思っているのですが、気持ちを落ち着ける一環として、的な意味合いもあったりするのだと思います。僕がトロイメライを聞いている時に思い起こすのは、幼稚園くらいから小学校低学年くらいの時期で
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2015年11月09日 09:12
なんかの動物番組が偶然録画されていて、ちょっと見てみたんですけど。犬が散歩の途中でライオンに出くわしたらどういう態度をとるのか?こんなような事をやっていました。ドーベルマンだったかな、一瞬近づいてから、そーっと後戻り、目を離さないように注意深く・・・「あっ、こいつヤバイやつだ」賢明ですね、かなう訳ないですから。犬種は忘れましたが、何かの小型犬、ライオンのオリに近づいてキャンキャン吠えまくってました・・・「やーいやーい、檻があるからへっちゃらさ」ライオンに本気出されたらどうするつもりだったんだろうか、ライオンの「ガウゥゥッ」のひと吠えに尋常ではない瞬発力を発揮して逃げるのかな。しかし、なんと言っ
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2015年11月08日 20:53
癒しが効かない、もしくは拒絶することすらあるタイプの人というか、自尊心で自分を保つ人。そういう人は、自分と似たタイプの人と想いを共有するという経験は大きな力になるんじゃないでしょうか。こういう方は、共感という言葉すら拒絶したいという想いもおありになるかもしれませんね。ーー自分が認めた、共感して欲しいと思えた相手にだけ共感して欲しい、という言い方の方が正しいのかもしれません。誰でもいい訳ではありませんねーーやっぱりプライドがありますから、情緒的な共感より、言語的な共感と言えばいいのか、強さの共有や自分だけではない事の確認と言えばいいのか。当然人に弱みを見せるのはかっこ悪いようにも感じますし。なる
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2015年11月07日 21:01
むか~しむか~し日本人が、食べるのにやっと、生きていくのにやっと。そういう時代でも、やっぱりどこかに幸せというものは感じていたのかな。こんな事を思いました。今日一日を生き延びた事とか明日の食料が確保されている事への安堵感。でも、これは安堵感ですね・・・・。先々まで見据えて、そこに希望を見いだせたりする事はあったのか。生きるのに精一杯なんだから、幸せだのなんだのって考える余裕なんかない、と、現代からの視点で想像してみるとそんな感じにもなってしまいそうですが。生きるのに精一杯という事は、そこには大きな不安や緊張や恐怖も伴っていたのか?わからなくなります。でもね~、どこかに幸せは感じていたんだと思う
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