記事のアーカイブ
2015年10月21日 09:02
多くの人が日常、自然と何者かになって自分を取り巻く環境に適応しながら生きている、キャラのようなものとか。偽ることはしんどい、辛くなってきてしまいます。その人の一部分を表現しているのなら、そしてそれが苦ではなくて、楽しさも感じる事があるのであれば、キャラというのは立派な個性ともいえるのかもしれませんね。新たな環境に入っていくとき、キャラを設定して可能性をどんどん広げていくという方法も。昔みたいに、同一性がどうのとか言うより、マルチに個性を表現出来た方が可能性も広がる場合もあるのでしょうし、なによりそれが楽しいのであれば、それは羨ましいことだと思います。逆に、キャラに自分との大きなズレを感じて、そ
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2015年10月20日 08:39
一日の終わりに、というか暇さえあればという感じですが。全身一人整体。頭皮・顔面・顎首・肩・背中から腰・腹部・股関節・臀部・足全体。割と強めにグリグリやります。日によって痛みを感じる場所も違うように思います。緊張したりイライラしたりした日には頭皮や顎、悲しいことがあった日には背中や腰、あまり体を動かさなかった悶々した日には股関節や腹筋。僕の場合はこんな感じで痛みが出るようです。一日の終わりにリセットして、翌日に持ち越さないためには、必要な事なのかな、と思います。やらないと、ちょっとずつなにかが溜っていきそうな気がしまして、ちょっと強迫的なのかな、とも思いますが。たぶん軽度のうちに、一生懸命グリグ
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2015年10月19日 08:48
庭に多くの木が植わっているので、小鳥がよく来ます。小鳥のさえずりというのは、なかなかいいものです。なんでなのかな、天候に関係なく、しとしと雨が降っていたとしても、小鳥のさえずりに耳を澄ますと浮かんでくる光景。森、陽光、木漏れ日、朝露や草木の匂い、ほわっとした温かさ、コテージ、シチュー、優しいおばあさん・・・、こんなイメージで、最終的におばあさんになってしまいましたが。ということは、小鳥のさえずりの真似をできる優しそうなおばあさん、これって最強なんでしょうか。いや~、ないな、それはない。だぶんあれかな、アンデルセンとかディズニーとかの絵本、童話みたいなのを読んでもらった時のような、ほわっとした感
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2015年10月18日 20:46
不安は誰もが持っていますね、自分という事について少し考えただけでも、いくらでも不安は出てきます。不安は誰もが持っている、というか全ての人の目の前にぶら下がっている、といってもいいのかもしれません。ただ、通常生活していて、あまり大きな不安を感じないのだとしたら、その目の前の不安は、ベールに覆い隠されているのだと思います。夢・希望・目標・やりたいこと・なりたい自分・欲しいもの・・・、他にもたくさんあるでしょうが、こういった厚いベールによって。夢も希望もないと考えれば、覆い隠すベールがない訳ですから不安を直視する事になります。目標を達成して、なにかをやり遂げて、充実感と満足感が去った後に、目標を失っ
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2015年10月18日 20:37
「私である」という意識が芽生えてから、たぶん40数年たったでしょうか。これは実年齢とは関係ないですからね。どのような経緯をたどって、ここに来たのだろうか、とは思いません。でも、なんの為にここにいるのだろうか、こういった事に想いが及ぶことはよくあります。これから先、どこへ行こうかと考えてみても、行きたい場所は思い浮かばない、ここに居続けたいだけなのかもしれません。ただ、何処へもいかずに自分と同じような想いを分かち合いたいだけなのかもしれません。常に実存の不安に苛まれつつ、という事ですが。いやいや、秋も深まってきまして、ちょっとさぶ~い感じに・・・。
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2015年10月17日 20:08
独りよがりに舞い上がり、自分の思い込みだけでものを言う。高圧的な方がまだ分かりやすい、逆に弱者を装い同情を誘って要求を通そうとする。「あなたのため」というお仕着せがましさからの指図、そして反論されるとふてくされる。単純に嫉妬や妬みからくる陰湿な攻撃や無視。こういった理不尽さは大きなストレスになりますね、実際にこういう話は多いですし。他にもたくさんのケースがあるのでしょうが、すこし思うところありまして・・・。フツーの状態で、フツーに生活している中で。無性にイライラして、なにかに噛みつきたいとき。イライラの元にほんとに噛みつける方は少ないです。状況を考えると、なかなかそうもいかなくて、我慢される方
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2015年10月17日 08:41
自立した個人同士という前提で、ですけど。コミュニケーションの方法なども、色々言われたりもします。どういうやりかたしたらいいとか。突き詰めると、コミュニケーションって、実は不可能に近い場合もあるんじゃないのかな、なんて思う事もあります。相手に何かを伝えようとする時、さまざまな混沌とした想いの中から一つを選んで、その想いをどうにかこうにか言葉にして、でもそれだけが自分が伝えたい事なのかどうかだって定かじゃないし、自分の想いにしたって、その瞬間にはそう思ったというだけで、後から思い直せば違う考えが湧き上がってくることだってあるでしょうし。その言葉を受け取る方も、自分の想いを通じて解釈するわけですしね
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2015年10月16日 08:38
先日、金八先生の名シーン、テレビでやってました。加藤君と松浦君に思いっ切りビンタして、ガッと抱き寄せるシーン。あれは本当に何回見ても泣けます。もう一つね、金八先生シリーズの名シーンだと、僕が勝手に思っているのが、健次郎が留置場で泣きながらカツ丼食べるシーン。この二つは、どちらも甲乙つけがたい名シーンだと思います。世代的には金八先生は、僕らはど真ん中って訳じゃなくて、どちらかと言うと少し上の世代になるのかな。ほんとのど真ん中は、ふぞろいの林檎、あのなんというか、独特の台詞まわしというか、あのダサい感じがすっごく共感できました。僕らの世代はバブル世代とか言われたりもしますけど、無条件で浮かれていた
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2015年10月15日 08:38
変わらなきゃいけない、って思うとちょっとしんどい。今の自分にダメだしする身振りにもつながったりして、強迫的にもなってしまったり、プライドが許さなかったりもします。なにより、変わるっていうのは、一大決心とか、自己啓発とか、動き出すのに、相当勢いも必要で、ちょっと面倒だったりもします。だから、そこまで構えないで、ちょっとだけ流れを作って、その流れに軽く乗ってみるというのもいい場合もあるのかもしれません。少しだけ、今とは違う環境を取り入れてみるのも割と自然でいいんだと思います。今の自分の環境にいない誰かとつながってみるのもいいんじゃないでしょうか(これにしても少し勢いや勇気が必要ですが)。今の自分に
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2015年10月15日 08:28
本当の自分とか、自分は本当はどうしたいのか、という事を考える場合に、人は意味を持って生まれてくる訳ではないのかもしれないという事に思いが及ぶ時があります。ーー意味や使命を持って生まれてきているのだとしたら、その意味や使命こそが本当の自分に通じるのでしょうが、僕はどうしてもそうは思えないんですねーーもし、成長してゆく段階や、社会性を持とうとする段階で、自分を取り巻いている環境に対応する事によって、自分というものが形成されてゆくのだとしたら。その過程で感じた事の中にしか、本当の自分といえるものはないような気もします。成長の過程で、十分に与えられなかったもの、過剰に与えられたもの、または強度のあるな
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