神奈川県藤沢市城南 東海道線沿線のカウンセリングルーム。辻堂駅より国道一号線方面へ徒歩12分。10:30~21:00、年中無休。


記事のアーカイブ

2018年06月11日 10:26

人それぞれの牛乳

牛乳を飲む時は決して気を抜く訳にはゆかない、湧き上がりそうになるビジョンを常に抑圧し続けながらでなければ、僕は牛乳を飲むことが出来ない、というのは7割方は冗談です、だから3割位は本気。牛乳、牛の乳、牛という動物の乳汁、本来はその母牛が子牛に与えるものとしての。なぜ人間はそれに目をつけ、それを飲むようになったのか、工業的生産物としてまで。常にもごもごと口を動かし反芻している動物、ちょっとなんか垂れてたりとかも、匂い・・・・・は、まあ、いいや、特別にかわいい動物という訳でもない、猫のように萌え要素の塊という事でもない、だから倒錯は常識的に考えて不可能であるかのようにも思えるし、そう言えば猫というの

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2018年06月10日 10:44

優しい希望

戸建て住居の玄関脇、庭先、裏庭の僅かなスペース、今の時期はそういった場所に紫陽花を植えている家が思いの他多い事に気付かされます。しかしまあ紫陽花というのは、ネクロの呪縛から我が身を引き剥がしたエロースとでも言えばいいのか、冬の間はまるで即身仏であるかのように枯れ果ているにもかかわらず、早春から瑞々しさ、生気を取り戻し始め、梅雨の時期に合わせて色とりどりに目覚める・・・・・・・再生、反復、輪廻、永劫、ちょっとよく分かりませんけれど。紫陽花というのは、名所と言われている場所に赴いて人だかりの僅かな隙間から諦めと共に目に焼き付けるかのように凝視するより、優しい雨音に包み込まれる静寂の中で、人のまばら

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2018年06月07日 20:59

涼しさの象徴としてのイマージュ

定かではない造作不明の、ただし涼しげな目元である事だけは確かな化粧っ気のないメディアとしての顔がアナウンスしてくる水の香り、水の音、火照りを洗い流し続ける透明感。このイマージュは遠い記憶の断片を集積したものなのかもしれないし、心的な理想の像としての女性のイコンなのかもしれません。毎年、夏が近づいてきて、まだ汗ばむほどではない時期、体内に心地よく熱がこもり続ける極わずかな一時期に、必ず想起される涼しさの象徴としての。

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2018年06月05日 10:09

感覚を裏付けるもの

自分には持って生まれた才能があると思う中で何かを表現したとして、それは人々に認められなければならない、受け入れられなければならない、そうでないとそれは才能があるという事の証明にはならないから、フェティッシュとして一人で楽しむのであれば、それは話は別ですけれど、そうではなくその才能をもとに世に出ようとした場合。アカデミックな文脈を排除し続けたままでアウトサイダー的に何かを表現して、要は感覚とかセンスとか言われるもののもとで、それは一度は当たる可能性はあるのかもしれませんが、認められ続ける事が出来るのか、もしできるのならそれは本当の天才なのかもしれません。持って生まれた才能やセンスや感覚だけを頼り

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2018年06月03日 10:28

RPG的「設定」としての

人生において何か行動を起こす時決して失敗してはいけない、一回限り、レッテル、再挑戦はない、敗者、負け、とか思ってしまうと怖くて動けなくなりどうのこうの・・・・・・とか言う事ではなく、怖いとか臆病とか言われますけれど、そう言うニュアンスとは違う、ただ単に動くタイミングが掴めないだけ、というケースも多々ある。RPGに人生を落とし込んだ時に重要になるのは、設定、どういうキャラでどんなアイテムを保有していて何が得意で口癖は〇〇で、なにかやる時のルーティンにはこういうのがあってとか、ファンタジーも交えて時にはノリも重要視しながら。設定なんか上手くいかない時は何度リセットして再検討したっていい。設定として

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2018年05月31日 11:35

精神を愛撫する指先

唯一の事実の底を抜いた時にのみ鮮明に前景化してくる、その人にとって最も大切であるように思える心的現実、陶酔を保障された中で漂う事が可能な幸せな、その人なりの事実。さし出された言葉はピアニストのような白く清潔な指先となってむき出しの精神をそっと愛撫するのか、もしくは傷ついた精神の裂け目から極僅かに感覚されるピリピリとした痛みを歓喜に変換しつつ侵入を許す事になるのか。心を許すという行為がセクシャリティを経由する時、たぶんこのようなニュアンスになる場合もあるのだと思います。人間の精神は複雑・・・・・・・と言うか直線的な人がいる一方で、あまり多くはない数の複雑に迂回する人、青白いセンシティブな魅力を秘

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2018年05月27日 10:10

誰に伝えたいですか?

インタビュー等でよく聞きます、何かうれしい事があった時や何かを達成した時「この喜びを誰に伝えたいですか?」と。自分の中から湧き上がった喜びを誰かに伝える事で実感が湧いてきて、その喜びがMAXになる、一人の時には漠然とぼやけていた喜びの感情の輪郭が鮮明になる。その後、共有された喜びは達成に変わり自分の経験として収納される、波打った感情は収まってくる。喜怒哀楽の中の嬉しい事や楽しい事に関しては自然と人に伝えます、共有を経由してその感情はMAXになり、やがて収束してゆく。辛さや悲しみや怒りについても同じ、伝える事によってその感情の輪郭が鮮明となり、やがて収束してゆく。口に出さず、輪郭を鮮明にしなけれ

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2018年05月25日 09:22

理想を思い描く事の大切さ

小・中・高・大学、学校、教育機関、社会に出る前の子供・青少年と言われる一時期にそこに通い、知識を得たり人格を形成したり様々なかけがえのない経験をしたり、それを指導したり管理したりするのは大人の役目。教育機関はできるなら、社会の縮図ではない方がいいのかな、と思う事もあります。社会に出れば綺麗事だけでは済まないし、自分の考える理想通りに全ての事が運ぶかと言うと決してそんな事はない、落としどころであったり妥協点であったり、もっと言えば策略や裏切りやハラスメントというものだって無いとは言い切れないし、会社では社内政治的駆け引き等も。落としどころとか妥協点、それは何らかの二点が存在するからこその落しどこ

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2018年05月23日 17:04

手助けする時

その人を心配して、その人の為に何かをする時、手を貸すとか助けるとか何らかの行動を起こす時。その人の事を思っているのであれば、その時は自分などというものには意識は向いていないはずですね。それなのに、その人の為になんらかの行動を起こす直前に、その人に説明する、自分がどんなにあなたを心配していて、あなたが大変だろうから自分はあなたの為にこんなことをしてあげたい、手助けをしたい、という事を時にはまわりくどく長々と、そして恩着せがましく、まるで感謝を要求しているかのよう。これは「その人を心配している自分」というものが大好きである、という事を宣言しているに過ぎない。その人が困っていて、それを助けたいのなら

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2018年05月21日 16:08

親切である事

世界には愛だけが存在している、などという物言いは僕はピンときません。思うに世界には、執着と親切と寛容と無関心が存在する。執着というのは両価性の愛、一つは強く憎む事、そしてもう一つは一般的に言われる愛の事、その執着と、親切、寛容、無関心・・・・・・・今の時代はどんどん平坦になってきているので、この四つに加えて冷笑というもう一つの作法も加えてもいいのかもしれませんが。出来るなら、本当なら、一般的な愛と親切だけを生きられるのがいいと思うのですが、そうだ、親切というのは理性に由来する態度ですね。愛は反転する、手の平を返したように憎しみに変わる場合もある、そうなのであれば、親切で居続ける為に常に理性的で

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