神奈川県藤沢市城南 東海道線沿線のカウンセリングルーム。辻堂駅より国道一号線方面へ徒歩12分。10:30~21:00、年中無休。


記事のアーカイブ

2016年12月17日 09:14

愛情には程遠く・・・・・

「条件付きの愛情」というのは、ACの文脈などでも語られますね。ただ・・・・・それを愛と呼んでいいのか・・・・・・・。僕は実感として、その、戸惑いと共に語られる経験が、条件付きの愛情という表現にすら到達していない、ただ養育者から執着を差し向けられているだけであるようにしか思えない時が多々あります・・・・・・愛とは執着である、と言ってしまえばそれまでなのですが、しかし、あまりにも変質した執着であるようにも思えてしまって。「○○すれば愛してあげる」この象徴的な言葉や態度というのは、子供を自分の思うように操作する為・・・・・自身のナルシシズムを満たす為・・・・・・自分の様々な感情を処理する為・・・・・

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2016年12月12日 08:18

小さな自分を知る

ええと、一般論で語ろうとすると、それはよくないようにも思うので。あくまでも、自分について思う事として。今まで生きてきて、そしてこれからも生きてゆこうと考えている中で。何かに満足するという事は、想像してみるに、やはり、決してないようにも思う、です。満足したらそこで伸びしろがなくなるからとか、可能性を排除するべきではないとか、そういった知的な理由からではなくて、たぶん、なんとなく満足なんてする事はないんだろうな・・・・・・位のぼんやりとした、これは予感とか徴候とか言われるようなニュアンス的なものでしかないのだけれど。そんななかでも、やっぱり何かに納得しつつ、というか自分を納得させつつ、自分なりのそ

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2016年12月11日 09:16

自分だけの宝箱

相変わらず、考える必要のないどうでもいい事を、ちょっとだけ考えてしまったのですが。僕はよく「自分の思考とか意識とかの、もっと奥の方」などという言い方をしてしまう。これは、文脈によっては「心」的な言葉を使う事によって、ナルシシズムの深みに陥る事を防止する目的で、意図的に用いているのですが。要は、普段は忘れているような昔の経験とか、そういった経験に基づいた何らかの観念や情動のようなものが湧き上がってくる場所のようなものを指して「奥の方」とか表現している訳で。なんとなくこれ、思うに「奥の方」という事ではなくて「遠くの方」であるのような気がしまして、だから湧き上がってくる場所というよりは、やってくる場

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2016年12月10日 09:07

自分という意識が芽生えた場所

僕自身が、あくまでも僕自身が自分についてかえりみる時。いつの間にか、知らないうちに、自分の意思とは関係なく生まれ、これは個体として、生命体として、発生したという意味です。その後、養育者と思しきものとの何らかの関わりの中の、どこか今となっては定かではないタイミングで、この個体が「自分」であるという認識に至った、自我の芽生えとか言われるものでしょうか。だからまず初めに単なる生命体として発生した後に、もう一度、今度は「自分」として発生し直した。しかしまあ、この「自分」という感覚ほど、不思議な感覚はないというか、なぜこの身体に「これこそが自分である」などという不思議な認識が芽生えたのか。もっと言えば、

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2016年12月09日 09:07

接続と切断

インターネットには、まるで無尽蔵なのかと思える位、情報というのは沢山あるのですね。何かを選択しようとした時、その情報というものは便利で有り難いものであるようでいて、なんとなく逆にかなり厄介なようにも思えてしまう時があります。情報が多すぎて、一つ一つを自分で精査しようがないというか、もしくは、ご丁寧に自分に変わって精査までしてくれている情報の集合体などもありますしね。これを選択すると、こんなような利点があります、というような事も丁寧に様々な角度から教えてくれます。完璧に精査されていて、利点も分析されていて・・・・・・そんな中でその提案を受け入れて選択した時「あなたは何故それを選択したのですか?」

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2016年12月07日 09:05

儚さの集合体

少し強く引くと、こらえきれず簡単にちぎれてしまうようにさえ思えてしまう、儚さの集合体のような揺らぎ。その揺らぎを手にした瞬間、あまりの愛おしさに、儚さそのものを自身に内包してしまいたいという衝動にかられるしかないのでしょうか。しかし、儚さの内包とは、その揺らぎ自体の消滅を意味しているようにも思え。その揺らぎを手にしたまま、渇望と慈愛の狭間をさまよい続けているうちに、自身の内から絶望と希望が同時に浮上してきている事に、ふと気が付く・・・・・・これこそが、儚さを噛みしめているという事なのか。・・・・・・・・と言う、意味不明な言語の羅列。すみません、もし、できましたら、頭で考えると「なに言ってんだこ

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2016年12月05日 09:14

頭で考えずにまず行動、なの?

尻込みせずにやらなくてはいけない、勇気を出して行動しなくてはいけない、でもなかなか思い切れないというジレンマ。そういう時は、頭で考えずにまず行動しましょう・・・・・・などという事は、ない。だいたいが考えないで行動したら危なくってしょうがない、まずコケるし。だからまずは頭で考えてシミュレーションする、というのは大切ですよね、当たり前の事ですけど。と同時に、何故尻込みしてしまうのかとか、何故勇気が出ないのかとか、そこの理由を考えてゆけばいいです。・・・・・・これは行き過ぎた精神論に陥らない為にも。以前に失敗した事が外傷として残っているのかもしれないし、成功体験の数がまだあまり多くはないのかもしれな

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2016年12月03日 09:14

本当の自分と社会との和解点

「本当の自分」という言葉は、様々な文脈によって語られます。その「本当の自分」というのは、究極的には、厳密には探しあてる事は不可能なのかもしれないですけど、と言うのも、それはただ一つの自分、唯一の自分というものではないようにも思えるから、でも見つけ出した方がいい事は間違いないですね、その先に自分独自の幸せというものがある訳ですから。苦労の末に、一つ探しあてて、その自分と共に日々を歩んでいる時、またそれとは別の本当の自分が発見できたりもして・・・・・だから本当の自分というものも、自身の経験や学習によって多様に変化してゆく、もしくは最初から一つだけではなくて、二つ三つの本当の自分が存在するようなイメ

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2016年12月01日 20:55

リラックス効果としての生成の戯れ

自分の思考の内奥から湧き上がってくるうっすらとしたイデアのようなもの、それは郷愁を伴っていたり、ナルシス的な変容を被っていたり、なにかぼんやりとした、さまざまな色彩を伴ったもの。そういうイデア的なものではなくて、自分の薄っぺらい意識上で生成される、これは、空想、ファンタジー、妄想様観念のようなもの。生成されたものの効果として、その生成物が新たな生成物を生み出し、際限なくその再生成が自動的に繰り返される。その、自分から独立した現象に意識を委ねているうちに、生成物と再生成物が、自分の意思の外側で戯れ始める・・・・・・という生成の戯れ。輪郭のはっきりとした、しかし色彩の定かではない、生成の戯れ。モノ

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2016年12月01日 07:55

かっこ悪さを引き受ける

これはもう、普通に一般的な話として・・・・・・・・・。「ヤダッ」「もうできない」「もう知らないっ」「こんなのやりたくない」「かっこ悪いからヤダ」「なんで我慢しなきゃいけないの、ヤダッ」人生を重ねてゆくうちに、いつの間にか多くの事がぐちゃぐちゃになって、沢山の糸が絡み合って、それでも先に進もうともがくのだけれどうまくいかなくて、全てを投げ出したくなる時、叫びたくなる時、ちょっとでも気を抜くと途方に暮れてしまいそうな時、ほんとは感情に任せて思いっ切り弱音を吐きたい時。子供みたいに泣いて、駄々こねて、癇癪起こして・・・・・・こう言う身振り(この前段階が弱音はいたり、ちょっとふてくされたり、思いっ切り

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