記事のアーカイブ
2016年11月05日 09:02
よく、肚に溜めこまないで吐きだす事が大切、話す事で楽になるとか、なにか精神が浄化される効果があるようにも言われますけど、カタルシスみたいな事を言っているのかなと思いますが、軽度の愚痴の範疇ならこれでいいのだとも思います。誰にも話していない、自分の中に溜っているものを吐き出す、それは観念的なものであったり、具体的な経験や言葉であったり、それは自身が受け入れ難い事柄である場合もあります、様々な感情も付着しているのかもしれません。受け入れ難いものを否定しながら、どうにかこうにか日々頑張っているのですから、それは調子も崩す訳ですね。その想いを話すという事は、話したいと思ったという事は、話してスッキリす
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2016年11月03日 09:18
いろいろなニュースを見ていると思いますが、バランスが大切という事なのか、我慢する時間も必要という事なのか・・・・だから、欲求不満耐性。理屈でごり押しするだけでも、情に訴えるだけでも、ダメなのだろうし、結論を急ぐより時間の経過と共に状況の移り変わりを忍耐強く待つ態度というのも必要になる場合もあるのでしょうし・・・・というか早急に結論を出そうとして台無しにしてしまう事もあるという事実とか。極端な行動や言説というのは充実感や高揚感も伴うのは事実だと思うのですが、勝ち負けの場合はそれでいいのかもしれないですけど、やっぱり周りも活かすには、というか周りを活かさないと自分も活きないことも多いのでしょうし、
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2016年11月02日 09:30
ダンディは、社会のルールの中に在りながらも、たえず世間からずれてゆく、その態度こそが自身を保つプライドでありスタイル・・・・・・ダンディは違いへのこだわりを、洋服のほんの少しの着こなしの差異によって表現してみせる、マニュアル本が10通りの着こなし方を提案しているのなら、敢えて11通り目の独自のスタイルを表現してみせる・・・・・・・。詳細はよく覚えていませんが、昔、こんなような内容の文章に少し感銘を受けた事がありますが。日本に浸透しているダンディのイメージとはだいぶ違っていた事が印象に残っています。18世紀から言われている事のようなので、勿論当時は男性に対してという事だったのでしょうが、今の時代
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2016年10月28日 09:27
一緒にいると、自然な自分を出せるように感じて楽な相手、ちゃんとしなくてはいけないように感じて緊張してしまう相手、観察されているように感じて不安感が湧き上がってきてしまう相手、詮索されているように感じて居心地の悪い相手、操作されそうに感じて警戒心を抱いてしまう相手・・・・・・・・・楽しい気分になる自分、イライラする自分、自信に満ちた自分、腹立たしさを覆い隠す自分。好きな自分、嫌いな自分、どんなに自分自身が気にいっているいい自分を出そうとしても、それは相手に打ち消されてしまう、もしくは対峙した瞬間に自動的に生成されてしまう自分に抗いようもない。自分の中には様々な要素があって、だからどの自分も自分を
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2016年10月27日 09:21
日常において、普通に生活している中では、何となく自分は平均寿命くらいまでは生き続けるんだろうな、などという事を、うっすらと思っているのか、それともそういう事は意識しない中で、日々生活しているのか・・・・・・たぶん、意識しないようにして生活している中で、ふとそんな観念にとらわれた時に、なんとなく平均寿命を持ちだしてくる・・・・・そして「なんなら平均寿命超えてやる」とか、さしたる根拠もない中で「まあ、自分は大丈夫」とか。そんな自分なりの日常を過ごしつつも、ニュースやさまざまな情報に驚きと共に触れる時、これはやはり複雑な想いも湧き上がってきたりもします。自分は何を成してきたのか、そしてこれから何を成
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2016年10月26日 09:12
主婦の鏡のような人、亭主の鏡のような人、サラリーマンの鏡のような人・鏡には、なにか理想像のようなものが映るのでしょうか。それは多くの場合、誰にとっての理想像なのか。主婦の理想像は男性から見た、亭主の理想像は女性から見た、サラリーマンの理想像は経営側から見た、それぞれの、もしかしたらそうあって欲しいという、そしてもっともしかしたら都合よく捏造された理想像・・・・・極端に言えばという事ですが。それを敏感に察知して、自分の理想像として取り込んで表現し続けるのもいいのでしょうし、逆に振り払って独自のスタイルを突き進むのもいいのでしょうし。一つだけよくないのは、その理想像の視点に自分が立って、今の自分ー
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2016年10月25日 09:17
顔ってなんなんだろう・・・・と考えれば考えるほど分からなくなってきます。顔には目と鼻と口があって、横に耳がくっついていて、そのバランスや大きさは人によって違っていて、だからこそ個人を特定できるのでしょうが、同じ顔ってまずないですしね。という事は、もし顔というものがなかったら、個人を特定するのは、声とか体形とか、でもそういうのは聞き間違えや、体形は似ている人って結構いますし。そうだ、顔には筋肉も付いていて、表情も変わりますね、しかしあの喜怒哀楽の表情というのは、誰に教わった訳でもないのに何となく自然と出来てしまうのか、それとも親や環境からそれなりに学習したのか、怒っている時は怒っている表情に自然
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2016年10月23日 09:13
立ち続けなくてはならない、ここから立ち去る訳にはいかない、今は座りこんでいるけれどもう一度立ち上がらなくてはならない。それは家族の為であったり、自分自身の為であったり、プライドを保ち続ける為であったり・・・・・失われたものを取り戻す為、自分が自分である為、というのも含まれると思うのですが。そういった何かの為に、もう一度あきらめずに、と思う時。優しさや陽性の愛という理想的な感情だけをエネルギーにして頑張る、という事が可能なのかどうなのか。動くきっかけとなる大きなエネルギーというのは、どちらかというと怒りのエネルギーである場合も多々ありますしね、現実的には。家族を守る為、自分自身を守る為、自身のプ
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2016年10月22日 09:03
なにか行動を起こそうとする時や人に接しようとする時、事前に頭の中でシミュレーションをするという事もあるとは思うのですが・・・・・頭の中で流れや対応方法等を想像してみる、的に。本来のシミュレーションとは、考案されたシステムの動作挙動を同じような仕組みで動く他のシステムや電算機によって模擬する、模擬実験・・・・・みたいな、ここには当然客観性や感情の排除があります、まあ、電算機によって行われるのなら当たり前なのかもしれないですけど。自分の事について、自分でシミュレーションしてみるという事は、どうしても自分の思考を通じてなされるしかない事ですし、そこにはネガティブ・ポジティブというバイアスも当たり前の
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2016年10月21日 09:06
依存・・・・他に寄りかかり、それによって成り立つ事、とか書かれていたりもしますが。だからどうした、というか、なんかこれって人の自然な在り方なんじゃないのか、と、屁理屈こねたくもなってしまう。なんというか、自立した一個人であろうとした時、それは依存を経由しなければ到達できないようにも思え。自立した個人である、と宣言するという事は「自分はこういうものである」と宣言するという事で、その時に必要になるのは、その宣言を受け入れてくれる人、承認してくれる人、自立した自分でいさせてくれる周囲の人達。経営者であると宣言する時の社員、リーダーであると宣言する時のスタッフ、人に尽くす自分であると宣言する時の自分の
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