記事のアーカイブ
2018年03月04日 10:02
いきなり自己実現をしなくてはいけない訳ではないし、自分らしく生きなくてはいけない訳でもない、だいたいが自分らしくとか迫られても、自分らしくするという事と人から変わりものと言われる事は紙一重なのかもしれない、なにが自分らしいのか、そんな事は考えた事もない。自分らしい、勿論孤立とも違う、人と交流している時にごく稀に、違和感を感じた自分というものが自分らしい自分という事なのか、常々不満に思っている事を暴露し、その宣言通りの自分をトレースする事が自分らしいという事なのか、結果、スピンアウトする自分。人とは違う価値を表明しなくてはいけない訳ではないし、個性を光り輝かせなくてはいけない訳でもない、協調性の
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2018年03月02日 10:37
天気のよい休日の昼下がりのカフェ、愛想のない店員が無造作にテーブルに置いた出がらしのようなエスプレッソに顔をしかめつつ、目の前の数人とバカな話をして笑い合ったり、議論や、事象についてのそれぞれの解釈に思考を活性化させたり・・・・・・・・などというシチュエーションに日本で出くわす事はまず不可能なのでしょう、だからイメージとして。たぶん、人生というのはこれだけの事である程度満足出来てしまうようにも思います。これだけの事、たったこれだけの事をするのにも、それなりに日常をしっかり生きる必要がある。自身が今日は休日であると認識するには、休日ではない多くの日が必要、何かに精一杯打ち込んでいる日常、オンとオ
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2018年03月01日 10:25
岐路に立った時とか、人生の選択とか、それほど大袈裟な事ではないにしても、方向を決めなくてはいけない時や何らかを選択しなくてはいけない時。自己責任、自分の事は自分で決める、こういう事はたぶん誰でも子供の頃から自立目的でとか考える力云々とかで言われてきているのでしょうから、やはりそれが沁みついていると自分一人で苦悩しつつ選択しなくてはいけないようにも思ってしまう。今の自分が居る領域の事なのであれば、それはだから、今の自分の思考によって判断が可能な事なのであれば自分一人で考えて決めたっていいのでしょうけれど、逆にそうではなく新たな領域に踏み出すための選択という事になると、それは自分の知らない事につい
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2018年02月24日 21:38
「お前は誰だ?」と聞かれた時、僕らはなんと答えるのでしょうか。職業であったり、所属している共同体の一員とか、夢中になっている事であったり、誰々の夫とか妻とか子供とか、出自とか、自分に付けられている名前とか・・・・・・・聞かれた側の受け取り方によってそれぞれ、答えは違ってくるのでしょうけれど。アイデンティティのようなものを口にするのかもしれませんが、しかしどうなのかな、浅い領域の話であればそれでもいいのかもしれないけれど。「お前は誰だ?」と問われた時、対外的には無難にそんな様な解答をする事は僕も可能。ただこれ、自分に問うてみた場合、自分で自分に「お前は誰だ?」と問うた時、正直に真摯に深く考えれば
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2018年02月23日 10:36
ニュース等で急死という言葉を聞くたびに、これはもしかしたら誰にでも起こりうる事なのかもしれないし、自分に起こらない可能性はゼロではないのかもしれない、という思いが湧き上がってきます、否認しきれずに脆弱な理性の壁を突き破って、浮き彫りになる圧倒的無常。誰だっていつ死ぬか分からない、という現実を抱えながらなのか、現実を覆い隠しながらなのか、そんな中でどのように生きてゆけばいいのか。どのように生きるか、という事を意識しないようにして現前を味わい続けるという生き方もあるのだろうし、自身が打ち立てた目標に向かって邁進し続ける自分というものに充実を感じ続けるという生き方もあるのだろうし、もっと刹那的な生き
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2018年02月22日 20:35
頑張る、なにを頑張るのか、頑張る対象となるアイテムは何でもいい。なぜ頑張るのか・・・・・・自己愛に基づいて欲望を美しく装飾し、さまざまに言い訳してみたとしても、無意識的根底にあるのは勝負したいから、それは他者との勝負であったり、時には自分との勝負であったり。頑張るという行為は、実存をかけた本気のゲームなのかもしれません、そしてゲームは自分次第で何回でも、何十回でも何百回でもやっていい。ゲームの勝ち負けという事以上に、生きている実感を得る事ができる、勝負という行為自体が楽しいのでしょうから。
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2018年02月21日 10:33
現実、ただそこで起きている事実を僕らはそのまま機械的に認識する訳ではなくて、機械的な認識に人間的な情緒を混入させる事によって、その人なりに認識する、現実をさまざまに、その人なりに曲解して認識する。情緒を言い表す時、単なる現実の側から見た場合には、大袈裟に言えば夢のようでもあるポエム的言葉によってさまざまに形容される、単なる現実の側から冷静に見た場合には「まぼろしなんじゃないの」と思ってしまうしかないような、ナルシシズムに根ざした美しくもある認識。夢であり幻である認識、夢幻の認識、僕らは言葉を放棄しない限り決して夢幻からは逃れられない、では言葉を放棄したらいいのかというと、言葉を放棄するという事
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2018年02月20日 09:54
僕らは言葉を話す、僕らはしゃべる、極端に言い切ってしまえば、迎合するためにしゃべる必要はない、より多くの人が望んでいる可能性の高い言葉を、より多くの人が期待している可能性の高い言葉を、予測してしゃべる必要もない、人を感心させるためにしゃべる必要もない。しゃべる事というのは、自分は自律作動している個であるというメッセージ。僕ら一人一人がニュアンス的にはメディアであればいい、ただしそれはマスどうこうではなく、言葉を聞いた瞬間にその人の顔を思い浮かべてしまう、という意味合いでの。そういえばマスメディアにだって顔がありますよね、フジテレビにはフジテレビの顔があるし、テレビ朝日にはテレビ朝日の顔がある、
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2018年02月19日 11:47
在ると思えばあるのだろうし、無いと思えばないのだろうし、心というもの・・・・・いつ発明されたのでしょうか・・・・・・心というか、無意識の発見以降。自分の中に心というものを設定した瞬間に、それを大切に扱わなくてはいけないような、決して汚してはいけないものであるかのような、そんな感覚にも陥ってしまう・・・・・・なにか、鍛えるという言葉の対極に、優しくそっと、ひっそりと、か弱く存在しているものであるかのように感じてもしまう。ただ、自分に心というものを設定しない事には、他者と上手く関わる事が出来ないようにも思う。もし自分に心を設定せずに、自分をいじめ抜いて、乱暴に扱い、鍛え続け傷つけ続けるのだとしたら
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2018年02月18日 10:09
日中はあわただしいので、オリンピック男子フィギアスケートは録画して後でゆっくりと見ました。録画を再生し圧巻を目の当たりにしている時・・・・・・・・・・精神分析、ポスト構造主義、精神分析、ポスト構造主義・・・・・・・・・これらの言葉が頭の周辺をグルグル回っていた。常識を打ち破るものを常識で、一般論の向こう側に存在するものを一般論で、規格外を規格で語る滑稽さ、語るには何らかのモノサシに当て嵌めて語るしかないのですから仕方がないことなのですが、その結果、語れば語るほど、語る者の滑稽さばかりが浮彫りになってしまうしかない、そしてその事は語られている対象の、ある種の超越を鮮明にする、語れば語るほど、何も
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