記事のアーカイブ
2018年01月29日 12:38
新たな表現、新たな造語、新たな言い回し、日本語が乱れている、とは言えない場合も多々あように思います・・・・・・・正しい日本語、美しい日本語、これは日本古来の、昔ながらの、国語の教科書的な日本語という事なのかどうなのか、よく分からないのですが。時代が移り変わってゆく、時代が変化する、様相を変える、さま変わりする、科学の進歩、コミュニケーションの変化進化、移り変わる倫理、グローカリゼーション的に新たに立ち現れてくるもの・・・・・・・正しい日本語とか美しい日本語とか言われるものが、昔から流通している日本語なのだとしたら、それは人間を取り巻く昔の環境に適した日本語でもある、という一面もあるのかもしれな
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2018年01月27日 11:27
日中の精神的喧騒の中での予定外のスポット、空疎としての時間に書物に目を通したり何かを書きつけたりしている時、不意に襲ってくる眠気。少しだけ横になろうと部屋を移動し、アラームもかけずにいきなり仰向けで膝を立てて、ものの一分もしないうちに一気にノンレム睡眠へ、というのは寝オチにも近いのか。理性が活動を収め、無意識を監視する為の僅かな点滅だけを繰り返す中で、自分は鉛色の、底があるのか無いのかすら定かではない、洞窟内に奇跡的に形成された水脈の深みの中へと没入してゆく。もしくは理性の主体である自分が活動を休止した効果として、無意識の主体としての自分が自由に活動できるようになった状態、という事なのかもしれ
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2018年01月26日 10:23
親戚の人達に会うとここ何年かよく言われる「おまえ、親父にそっくりになってきたな」と。見た目は確かに、そう、父の写真とか見るとそんな感じでもあり、ちょっとゾッとする事もあります。ただ中身はどうなんだろうか、僕はあんな風に一本気ではないように思うし、強固な意思のもと不言実行という訳でもないし、万難を排して一路邁進という訳でもない、大学卒業以来一つの事に・・・・これは仕事も勿論含めて、自分はこうであると突き進んでいる訳でもない、母の、というか父にとっては女房の、暴力的言語の数々に黙って耐え続けるという事もない、自己犠牲的男の美学に関しても父の足元にも及ばない・・・・・・・とか勢いで書いていて、なんだ
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2018年01月21日 09:57
トラウマ、心のケア、心のセルフコントロール、社会全般に蔓延した心理学、心理学化した社会、社会の心理学化というのはいつの頃に始まったのでしょうか、境界例とか多重人格とか癒しとか、一般に浸透したのは90年代以降? これは失われた10年ともリンクしているのでしょうかね。社会の隅々にまで心理学が行き渡った、殆どの人が聞き覚えのある、自明ですらあるポップ心理学。ゆき渡ってしまえば新鮮味は薄れ、ありがたみも薄れ、効果も薄れる。こういう状態の時はこうなる可能性が大きいから、こういう対応をしましょう・・・・・・・という事が分かっていたら、そこで言われている、こういう対応をしても治らなくもなる、もしくは心理学プ
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2018年01月20日 11:04
部屋の窓を開け放ちガラムのメンソールをくゆらせながら、瞳孔の開き切った遠い目でうっすらと曇天を眺めていたその時・・・・・・・・要は精神の輪郭がぼやけて朝もやに溶け出しているかのような、弛緩しきってボーっとしている状態という。「闘争」と「愛」という言葉なのか観念なのか、ニュアンス的には何故かイコンにも近い様な、おぼろげなものを何となく眺めていたある瞬間、その向こう側に「調和」という言葉がハッキリ見えたという、まあ白昼夢に近いような感じなのかもしれませんけれど。調和というのは、闘争と愛のその先に存在するものなのか、闘争や愛を経由する事なしには調和は経験できないのか・・・・・・多分できないのだと思い
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2018年01月19日 10:03
自己分析という不可能なものを試みようとする時、自分の核という、取り返しのつかなさ故に頭を抱えるどうしようもなさの周囲を慎重に、決して核を直視しないように無意識的に注意深く周回し続ける衛星的状態にとどまるしかない、という自己防衛的手段。自己分析、自分の抱えてしまっている事実へのダイブ、もしダイブしたとしてそこで発見可能な唯一というのは、空白の自分、空虚な自分、何の意味もない自分、圧倒的な欠如体、実は何も書き込まれてはいなかった自分の意味。圧倒的な欠如体でしかない自分、その空白の核を、思想や信条、信仰で埋めようとするという仕方も勿論ありなのでしょうし、ただただ現実を現実のままに、意味を持たない自分
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2018年01月16日 20:58
年齢や経験と共に段々と、徐々に、しかしうっすらと、見えてくるものがない訳ではない、という事は男同士で話していると感じます。同世代とか、そうですね、40代50代とか「ここまで何となく生きてきて結局、自分らは、いったい何をしたいのか」。何をしたいとか、何か目標や理想を掲げてそこに突き進むとか、それは単なる手段でしかないのではないだろうか、という話に落ち着く。ではそれは、何の為の手段なのか、これはそう、戦う為の手段、社会的立場とか、どちらが又は誰がより大きなファルスを幻想的ではあるにしろ所有しているかとか、力比べ、知恵比べ、度量比べ、これは金銭の文脈は関係ない、だから金を持っているかどうかという事は
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2018年01月15日 09:50
自分の考えで、自分が思ったように行動する「お前がやりたいようにやってみろ」と後押しもされながら。自分が思ったように行動する事、それは自分一人の力だけで成せることではない「お前のやりたいようにやってみろ」と言ってくれた周囲の人達の、これは支えとかバックアップとか、そういう綺麗な言葉で通常は言い表わされますが、要は負担、周囲に負担を強いる、周囲にシワ寄せが行く、周囲がそれを容認してくれるから自分は好きなようにやる事が出来る、という事実。好きなようにやる事には、大きな責任が付いてまわる、それは絶対に成功させるという責任、たぶん周囲は失敗も許してはくれるのでしょうが、せめて自分の心意気として、自分に失
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2018年01月13日 11:21
話す事に対しての書く事、講義に対してのテキスト、パロールに対してのエクリチュール、どちらが伝わるのか、強度や客観性はエクリチュールが優位のようにも思う、ああそう、金八先生とかでありましたね、なにか大切な事を伝えようとする時「はーい、じゃあみなさん、教科書はしまいなさーい」と。ただあれは、転移なのかな、先生側の欲望を生徒に転移させようとする戦略、想いや情熱という基盤の上を言葉が走査する、結果的にポエムになる、先生の熱い想いが、伝わったような感覚になり感動すら覚える、その語られた内容が事実なのかどうかは関係ない、ただ、金八先生は常にいい事を語っていた、これは間違いない。いや金八先生について書こうと
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2018年01月09日 11:46
「好きな事で飯が食える訳じゃない」とは昔から言われるものの、好きな事で飯が食えた方がいいんじゃないでしょうか、やっぱり、自分の人生と言う事を考えた場合は特に、取り返しのつかないものですからね、特に、過ごしてきた、経過した、人生の時間というものは。飯を食うとは、経済的に自立するとかそんなような意味なのでしょうけど。何らかの、だからこれは仕事、何らかの仕事に従事して貨幣を獲得する、それはやはり、生き延び続ける為、生活にはお金が必要なのですから、今はやりの自給自足、あれだって家族がいれば教育にかかるお金とか、病気になれば治療費とか、やっぱり必要になる、そんな不安を払拭するためにはギリギリ最低限のお金
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