神奈川県藤沢市城南 東海道線沿線のカウンセリングルーム。辻堂駅より国道一号線方面へ徒歩12分。10:30~21:00、年中無休。


記事のアーカイブ

2018年02月17日 11:37

閉塞の中で、身動きが取れずに。

70年代アイドル特集とか、テレビで見ると、何故か息苦しく感じる、重力が増したような、とても狭い空間の中で身動きが取れない超閉塞、これはなにもそれらの音楽がもたらす感覚という事ではなくて、自分が過ごした、自分の年齢にリンクしてしまうという事。70年代、小学生、中学生、自分を取り巻く環境、自分が日々を送るしかない、それは時として強制的に送らされる世界でもあったのでしょうが、とても狭い世界、学校、友人、家庭、部活、塾、ただそれだけの世界、情報も限らていましたし、子供はこうするものだという強制力の中、あまり自発的に自由に、という考え自体が存在しない、今振り返った時には諦めでしかない、身動きのとれない窮

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2018年02月14日 09:48

純粋でい続ける事

純粋なものに魅かれるという感覚は僕にはないのですが、ただ守る義務を感じるだけで。自立する、社会に出て、他者に揉まれて、埃にまみれて、泥だらけになる、持ちあげられ足を引っ張られ、称賛され陥れられ、それでも何かを呑み込んだり駆け引きしたり、生存競争なのか実存をかけるのか・・・・・・実存競争ってあるんでしょうか、実存をかけるという事か、そんな中で生きる力が増してきて、逞しくもなってくる。自立するとはある意味、純粋でいる事はできなくなるという事なのかもしれないですね。純粋なものと対等な関係は築けない、純粋なものは保護されるしかない、純粋の象徴、子供がそうであるように。純粋で在り続けたいというのは、自立

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2018年02月12日 10:54

答えは自分の中に・・・・・無い。

「答えは自分の中に在る」・・・・・百歩譲ってこの言説が事実だとしても、ああ、でも、僕はこれは事実だとは思っていません、あくまでも浅い領域の出来事であればそうも言えない事はないとは思うのですが。うっすらと思っている観念様を自分で直視しないように否認し続けている中で、その否認という鉄の扉を誰かに解き放ってもらう、その時にのみ「答えは自分の中に在った」と催眠的にナルシシズムに基づいて感じる事が出来る、というのは事実だとは思うのですけれど。もっと深い、というか通常の、答えは自分の中には用意されてはいない、自分の中、それは無意識とか時には心とか名指されているものの中、そこには強固な思いではなくただ、単語

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2018年02月11日 17:46

時間の牢獄

小学校入学時にはもう藤沢にいたので、だから伊東に住んでいたのは幼稚園まで、あの疑問を口にしたのは伊東で祖父母と父母と僕で住んでいた時の夕食時、全ての人がちゃぶ台を囲んでいた光景は鮮明に記憶している、幼稚園に入りたての頃だったのか、それともそれ以前の、自我の芽生えと共にだったのか、イメージ的には3歳~4歳位の出来事であったように思うのです。その疑問は、ふと思いついただけの言葉ではなかったような、だから自我が芽生えて、これが自分であると何となく根拠なしに認識するようになって、そんな過程のどこかで疑問が芽生えた、そしてその疑問についていくら自分で想いを巡らせても何の答えも見つからない。3歳児もしくは

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2018年02月11日 10:49

自分探し

将来に目を向ける、これからの自分がどうなってゆくのか、目標、目的、野望、明確なヴィジョン・・・・・・・そんな類のものは一切持ち合わせていないし、この先の自分がどうなってゆくのか、などと言う事は知らない、皆目見当がつかない。ただ夢中になってワクワクしていられれば、それでいいようにも思います、刹那的な生き方という事では決してなく。夢中になってワクワク、それは多分今の流れの延長線上でという事なのだろうけれど、だから、今の自分に新たに何かを付帯させたり、時には削ぎ落としたりしながら、そうこうしているうちに今とは全く違う自分に変化している可能性もないとは言い切れない訳ですけど。時間や経験という流れの中で

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2018年02月06日 17:47

大人の偏差値?

いつだったか、先日テレビをつけっぱなしにしていたら懐かしいCMが耳に飛び込んできました、大物演歌歌手が歌う「この街で、一番、素敵で暮らしたい・・・・・・」というやつ。あのCMが今でも流れているという事は、やはりあの価値観は色あせてはいないという事なのでしょうか。というよりは、時代と共にその価値観は進化しているのか、それはタワーマンションというヒエラルキーへと。学生時代は成績表や偏差値がありますから、それなりに確認しやすかったのかもしれませんが、社会に出てからは人々が拠り所とする明確な唯一の基準は存在しないですからね、そんな中で人と自分を何で比較するのか、どのように自分の立ち位置・・・・・・・レ

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2018年02月04日 11:01

生きている実感

先日テレビドラマをつけていたら「何の為に仕事をするのか」みたいなセリフがありました。その解答としてはどういうセリフだったのかは覚えていませんが。何の為に仕事をするのか・・・・・・・生きる為、お金を得る為、という事以上に今の成熟した日本社会の中では「生きている実感を得る為」に仕事をする、と、人によっては言えない事もないように思います。生きている実感、それはなにも達成感や満足感や働く喜びという陽性の思いに基づいてのみ得られる訳ではなくて、一種のワーカホリック的な、自傷にも通じてしまいかねないような、心身に痛みを感じる中での仕事との関わり方において、生きている実感というのは得やすくもある。痛みを感じ

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2018年02月03日 13:56

自分の価値

僕は、人に対して「あなたは非常に価値のある人です」と言う事はあります、それは本当にそう思っているから。じゃあ、そういう自分に、その人と同じように価値があるのかというと、それは知りません、なぜならそれは自分が決める事ではないから、自分に価値があるのかどうかを決めるのは自分ではなく、自分と関わろうとしてくれる人達だから。自己肯定感は勿論ある、しかし自分に価値があると思っているかと聞かれると、そこはやはり「・・・・・知りません」と答えるより他にない、自分とはただの無、ただの鏡、未記入のホワイトウォール、自分を判断するのは自分以外の人。常に準備し続けていればそれでいいように思います、それは、自己肯定感

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2018年02月02日 10:09

これは大文字である

これもどうなのかは分かりません、単なるイメージでしかないのかもしれませんし、そうではなく本当にそうだったのかもしれませんし、僕らはその時代を生きて実感する事はしていないのですから、やはり本当のところはその時代を生きた方々に聞くのが一番なのでしょうが、ただそれもその方々個人個人の自己愛に基づいた、自己肯定の作法の一種でしかない訳で、だからそれもあてにはならない。昔は、と言っても昔というのはいつを指しているのか、人によっては昔をいつまでも引きずっている訳ですから、極端に言えば今すらも昔の人だっている、ただ、一般的には、それは昭和なのか、20年前なのか10年前なのか、基本的には幻想に気が付く以前とい

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2018年02月01日 09:53

生きる事

解体して、組み直して再構築する、時には新たなものを追加したり、いらなくなったものは破棄したり、もしくはまたいつか使う可能性を考慮してジャンク置き場に保管しておいたり。生きている限り、一生涯、延々とこの作業を続ける、経験を重ねるごとに形や強度や大きさもどんどん変わってゆく、1年前の自分と今の自分では全く違うものになってもいる。生きる事は形を変え続ける事でもあり、常に今の自分を破壊し続ける行為でもある、ように思います。

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