神奈川県藤沢市城南 東海道線沿線のカウンセリングルーム。辻堂駅より国道一号線方面へ徒歩12分。10:30~21:00、年中無休。


記事のアーカイブ

2017年12月29日 10:11

リリック

映画でもドラマでも動画でも、出くわした何らかの現象や社会での出来事としてニュースになっている事でも、本当は人それぞれの主観によって感じた事や感想というのは違うのか、もしくはそれらを複数人で目の当たりにした時、どのように感じるのが正解なのだろうかとか、どのような感想を抱くのが正解なのだろうかとか、だから自分の主観が発動するのを、みんなはどのように感じたのだろうかという想いが、ストップをかける、主観的な感想を抱く以前の段階で、みんなで共有できそうな感想を手探りで探そうとするのか、過去のデータを瞬時に参照するのか。感想を聞かれた時、特に映画を見終わった時の映画館の出口とか、街中での友人同士複数人での

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2017年12月28日 10:18

気合い 根性

自分にとって大切なものは、壊れないように慎重に扱う、傷がつかないようにそっと扱う、落として割ったり、何かにぶつけて欠けてしまったりしたら大変だから、人の多いところには持ちださずに、家でそっと保管しておくのかもしれない。大切なものはそうやって扱われる場合もありますね。「自分を大切にしましょう」小さく脆弱なキラキラと輝く光の玉を胸にそっと抱くような態度で自分をあまりにも大切にし過ぎてしまったら、決して傷つかないように、決して壊れないように、細心の注意を払い続けるとしたら、自分はどこでどのように行動すればいいのか、全てを注意深くやり過ごし続けなくてはいけないようにも思え。自分というのは大切にすると同

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2017年12月27日 17:58

ポンコツとして

ありがたい事に定期的に頻繁に、障がい者と一般的には言われる人達が暮らす場に関わらせてもらっています。障がいといっても知的の方もいらっしゃれば精神の方もいらっしゃる、重さも全く違う、時には妄想が全開になる場合だってある、診断も生い立ちも人それぞれ全く異なっている、診断は仕方がないのですね、福祉のラインに乗ってもらうには診断は必要な事。そこで暮らしていらっしゃる皆さんにはカウンセラーであるとは言っていないので、ただのポンコツおじさんとして関わらせてもらっています、だから身の回りの事なども勿論、手伝いが必要な場合はやらせてもらう、ただ僕の場合は話を、これは取り留めのない話を、かなりの時間を割いて、ゆ

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2017年12月27日 17:55

どこまででも行く

どこまでも突き上げてくるユーロビートを制圧する至高のベルカント。ランダムにかき乱す硬質のピアノすら惑わす比類なきハイトーンボイス。互いに譲らぬ強固な意思同士がぶつかる時、完璧な調和が生まれる。超越の彼方へ・・・・・・脱構築を繰り返しながら。羽がある限り、僕らははどこまででも行ける、決してあきらめる事はない。どちらかが疲れて動けなくなった時には、もう片方が背負えばいい、背負って飛べばいい。

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2017年12月26日 10:27

無意識を信仰する

僕は無宗教、無神論、それは仕事上においても当たり前の事ですけれど。クリスマスが終わって今度は初詣という・・・・・これはイベント、宗教の文脈は排除した上でのイベント。僕らは何を信仰しているのか、全てのイベントが自明であるかのように何に突き動かされているのか。時代の空気に突き動かされている、その時代を覆っている空気に従っている、空気を信仰している、何の疑問も抱かないように細心の注意を払いながら。自分を取り巻く環境を見渡してみて、そこかしこにちりばめられている無意識、目に見えないものをあると妄想空想すれば、そこにたちどころに無意識を発見すことが出来る、能力。僕らは時代に漂っている無意識を信仰し、それ

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2017年12月25日 09:38

愛するものを守る

「愛するものを守る」という美しくもある言葉、これは実際に何かあった時には決してポエムでは済まされない、きれい事では一切済まされない。愛するものを守る、それは何から守るのか、愛するものを汚し傷つけるものから守る、傷つけるものは愛する者にとっての敵、すなわち自分にとっての敵、敵から守る、敵を攻撃し打ち破る、攻撃する為には武装しなくてはいけないというのは当たり前の事、それがない中での「守る」はただのお題目にもならない、身を挺して守るのか、討ち死にするのか、ではお前が死んだあとはどうするのか、誰が守るのか。まあね「だったら死んでこいっ」とケツを蹴り飛ばされればビビッて逃げ出すのがオチなのだろうけれど。

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2017年12月24日 17:26

年賀状に思う

年賀状に初春とか新春とか言う言葉を書く、そうすると普段は封印している非常に嫌な記憶が瞬時に蘇ってきます。初春、新春、春、桜の季節、風に舞う桜の花びら、普通に考えれば美しさや希望を象徴するような言葉なのですが、僕の中では風に舞う桜の花びらというのは、なにかこう、それまで否認してきた現実を突き付けられたかのような衝撃に声を失うしかないという。うちの祖母は、これは母方の祖母ですが、晩年、最後の1~2年は病院が併設した介護施設で過ごしていた、それは実の娘である僕の母が自分の親の面倒を見るのが、これはかったるいから、とか、しもの世話なんか絶対したくないから、とか、普通に言ってましたからね「きたない」って

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2017年12月24日 10:19

曲解 呪縛的 エディプス的

父・母・私という構図、古典的スフィンクスの謎というおぞましさ。ポストモダン、もしくはポストモダン以降、糸の切れた凧のように潮流なのか、単なるムーブメントなのか、なにかそんなようなぬるい風に身を任せつつ混沌を漂うしかない今という時代において、ある個人的な事象や問題の中にそのおぞましいスフィンクスの痕跡をクッキリと見て取る時、究極的苛立ちを隠せない、隠すつもりは毛頭ない自分。もしかしたらエディプスというのは近代資本主義を理想的に取り行い続ける上での偉大な発明だったのかもしれないし、資本家の野望を巧妙に隠蔽するための高度に洗練された概念だったのかもしれない、発明当時には幸せの条件ですらあったのかもし

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2017年12月22日 10:29

自分は存在しない

年末年始、せっかくの休みなのだから自分が楽しいと思える事を、とは言いつつも、僕は自分が何をしている時に楽しいと感じているのかどうか、などという事を意識して生きていないので、楽しい、楽しいってなんだろう、と思わないでもない。そもそも楽しいから何なのだろう・・・・・・何かを行為した事によって自分の中に情動の変化が生まれて、その感覚はウキウキわくわくする高揚感を伴っていて、自分の心身が軽く暖かくなったように感じたり、満足を得たり、生きててよかったと感じたり、みたいな事が楽しい経験という事なのか、ほんとにそんなことが楽しいに直結するのか、楽しいなどに規定されたくはない、楽しいというキッチュさにうんざり

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2017年12月18日 11:26

自分の名前の由来

「あなたの名前の由来は何ですか?」などというナルシシックな質問を、不意打ちのように投げかけられると・・・・・・戸惑います、堂々と答える気にもなれない、何故なら自分の名前というのは自分で考案して自分に命名した訳ではないから。誰かが、何らかの想いのもと、もしくは直感的に浮かんだとか、ほろ酔い気分でやっつけでとか、自分以外の者が自分に付けた、その名前には多くの場合想いが込められている、名付けた者独自の想いが自分に刻印されている。その、名付けという儀式には一切の抵抗は許されない、その名前は自分に一生付いてまわる、これはそう、名付けた者の想いを一生背負い続けるという事でもある、名付けたものと自分との関係

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