記事のアーカイブ
2017年09月24日 08:34
お彼岸の時期になると、大庭台墓園の前の二車線道路がかなり渋滞します。僕らはゴルフ場の脇の急坂を通って裏門から入るので渋滞には嵌まらないで済むのですが。お彼岸、彼岸、彼岸の時期になると「快原理の彼岸」を連想してしまいます、全然関係ないのですけれどね。人間にとっての二つの快、その一、心的緊張を極限まで抑える事、これは行きつくところは無に帰すことにもつながる。この古典を現代風にマイルドに変換すると、生存の文脈より実存の文脈が前景化してくるのか、社会的に無に帰す、社会的に生きていると認識されなくなる、何の役割も負わない中でなのか、一時的に全ての役割を放棄し、何のメッセージも発信せず、誰とも関わらず、社
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2017年09月19日 09:14
ここのところ、高橋洋子さんが透明感のある声で「残酷な天使のテーゼ」を歌っているのを目にする機会が何度かありました。その時の自分の心持ちによっては、不用意に耳にすると、そして迂闊にもつい聞き入ってしまうと、泣きそうになる、強力な転移のもと引き戻されてしまう、しかしそれは心地の良い郷愁を伴っている。 別に僕はエヴァ世代ではないし、リアルタイムで見ていた訳でもないのですけれど、しかし、いいものはいい。自身の潜在性に翻弄され、訳も分からずに境界例的にアクティングアウトを繰り返していただけの時期、自分は何者になるのか、自分のどこかをのぞき込み暴きたてたいような衝動にかられながらも、今一つ勇気が
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2017年09月18日 09:23
・・・・・・・ちょっと長い文章ですが、自分の本心に近いであろう事を書きました。アルコール、食、ギャンブル、買い物、etc・・・・・・様々な種類がある嗜癖としての依存。その嗜癖としての依存の一種、他者に対する依存、人に対する依存。自身の環境の中で溜め込んだストレスを解消する目的も含めて、他者に嗜癖として依存する、自信のなさや不安や苛立ちを解消する目的で他者に嗜癖として依存する。それは幼児が母親に対して向ける依存心と何ら変わりはない場合も多々ある、もしくはそれ以下、そう、多くの場合それ以下ですね、そこには聞き分けという概念は存在しないのですから。他で溜め込んだストレスを依存対象に向けて一気に爆発さ
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2017年09月16日 15:16
「許す」という行為は・・・・・・ほんと、微妙、今一つピンときません。なぜ許すのか、その出来事というのは頑張れば何とか許せる程度の出来事だったのか、もしそうなのであれば、それは初めから大した事はない出来事だったという事、究極的に感覚した憎悪から比べた場合には、という事ですが。許す事でどうなるのか、自分が楽になる、囚われなくなる、精神衛生上その方がいい、自分の心的ステージが上がる・・・・・・ってなんだそれ、とかも思わないでもない、です。絶対に許さないと心に決めているヤツの1人位、生きていればいたっておかしくはないのだし、それが不幸なことなのかというと別にそういう訳でもなく、憎しみは憎しみでそいつに
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2017年09月10日 09:03
心や無意識が感じる快、というのは一般的な意味で言われるところの快楽とは違う。無意識にとっての快とは、心的なエネルギーを極力低く保つ事が可能な状態。快楽というのは、心的なエネルギーは、心的な緊張は、高まります、どっと疲れたりもしますね。その真逆の状態、何もしない状態、ただ精神がフワフワと拡散して漂っている状態、弛緩し、ぼんやりして何も思考していない、何も活動していない状態、生きているのか死んでいるのかすら定かではない状態、これも一つの快。限りなく心的なエネルギーをゼロに抑える事、これは究極的には生を放棄する事にもつながってしまうのでしょうが、高まり続けたままの緊張の中では、それすらも一つの、無意
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2017年09月08日 20:36
ツインピークスの新シリーズが放送されるような話を聞きました。20数年前に前作が話題になってレンタルビデオで見ましたが、ただこれ、話題だったからというか、ツインピークスを見るという行為は、なにかかなり先端であるようなイメージがあったから、ただそんなような空気が漂っていたから全話見ただけであって、これは正直に白状すれば、惰性で我慢しながら、ただ映像を目で追い、字幕を読んでいた、途中で見るのをやめてしまうという事は、なにかからの脱落を意味するようにも思えてしまう中で。というか世界一美しい死体とか、意味わかんなかった、そして理解しようとしながら見ようとしても、理解や解釈そのものを拒み続ける強度のような
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2017年09月08日 20:23
「自分はすごい、色々な事が出来る・・・・ような気がする」というような根拠のない自信のもとで、さまざな事をやってみればいい。時には成功して喜びや高揚感を得て、でもなんとなく満足しきる事はなく。失敗も経験して、それでも折れることなく根拠のない自信と共に、失敗を否定しつつ「あっ、今のはナシ」と。そうやって何十年も生きていると、いつか何処かのタイミングで「あら?」と気がつく。今まで根拠のない自信のもと、様々な事をやってきたのだけれど、もしかして自分には出来る事と出来ない事があるんじゃないだろうか、実はかなりポンコツなんじゃないだろうか。この時にはさんざん色々な事を今までやってきてからの気付きですから、
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2017年09月07日 08:59
自身の青年期と完全にかぶるテレビドラマ、ふぞろいのリンゴ。病んだ感じ、アンニュイ感じ、ダサさやカッコ悪さに途方に暮れるしかない焦燥、何もない自分、空虚で無意味な自分・・・・・・を否認し続けているだけの、それは眼前に自身で用意した無責任な楽しみで重大な事実を抑え込みながら。青年期というのが何歳までなのか、それは時代によって違うのでしょうが、僕が思う青年期というのは18歳から22歳23歳位まで、それは高校生というシバリがなくなって、ある程度の解放感と共に社会からの規定を免れ漂う事が不可能ではない期間、今は年齢幅の上限はもっと上がっていますね。タガが外れ、バーナウトしながらも時には哲学的思考にも陥り
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2017年09月06日 09:04
それなりに親しい、友達と言ってもいいのかもしれない二者が三時間、二人きりでいるとする、二人きりで生身の人間としてコミュニケートする、この状態と言うのは話題が尽きない楽しい三時間なのか、話題が途切れる事がないように非常に気を遣う三時間なのか、共通の話題が見当たらなくて気まずく逃げ出したくなるような三時間なのか。なんて事を考えると、コミュニケーションツールというのは、もしかしたらありがたいものなのかもしれません、カラオケやゲーム・・・・・・例えばカラオケやゲームというコミュニケーションツールを介してであれば、特に会話をする事なく二人で三時間楽しめる。多分、カラオケやゲームが発明される以前の時代も、
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2017年09月05日 09:24
動いた方がいい事は分かっているのに動けない、という事は、ある。動いた方がいいというのは分かっているのは、それは頭で考えて分かっている事であって、だから理屈の部分ですね。僕らはどうでしょう、理屈だけで強靭な意志の元、行動出来る訳でもないですから。頭では、理屈では分かっているけれど動けない時、なにが自分に作用しているのか・・・・・・・それは、感情なのでしょうね。動く事は億劫だし、緊張や不安も伴うし、今の自分の日常には存在しない新たな事というのは、たとえその先で自分が今より良くなるであろうことが予想できるのだとしても、やはり緊張や不安というのは出来るなら感じたくはない。この感情の部分というのはかなり
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