記事のアーカイブ
2017年06月26日 08:04
1.000円を得るというのは、時給1.000円、時給換算にすると1.000円、時給1.000円だったらいい方なのですかね。本来的には快原理に従って自由で在りたいのかもしれない、人が、1時間拘束され、何者かに、雇い主に、規定され、指揮命令のもとで与えられた業務、的なものを遂行する為だけに、本来は自分のものである、自分の持ち時間というものを差し出す、その行為の対価として1.000円を受け取る。そこには自分なりの喜びがあった方がいい訳ですね、承認されたり称賛されたり、技術的な向上とか、間違いなく何かの役に立っている自分とか。そこに喜びを見出せる場合、時には嫌で嫌でしょうがない場合、どちらもあります。
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2017年06月22日 08:40
空虚・・・・・・物事の価値や心の拠り所が何もない事、空っぽな事。昔は何らかの、絶対的な価値や、唯一の事を信じていれば何とかなるようにも思える希望のようなものとか、何かそういうものがある中で、それと共に生きてゆけばそれで幸せだったのか、自分の幼年期や青年期を思い返しても、どうもそういったものは見当たらないというか、なんとなくピンとこないのですが、だからもう昭和の終わりにさしかかった頃からは空虚だったのかもしれないですけれど。空虚をどう生きるか、というのは大きな問題。もしかしたら本当は、我に返ってはいけないのかもしれない、我に返ってしまえば、その時は寄る辺なさとか拠り所の不確かさとか、そういうもの
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2017年06月17日 21:00
会社、学校、地域、参入している環境の一構成要因として自分が作動・機能している時、役割を果たしている時、そこでの自分の在り方に違和感や不満を覚える、大きなストレスもかかりますね。そんな中で「本当の自分ってなんだろう・・・・・」と思う事もあります。与えられている、もしくは割り振られている、自分の役割、それがあまりしっくりこないとか、すごく無理してそう在ろうと、周りの要請に応えようと。自分の今の在り方に違和感や不満さえ芽生えなければ「本当の自分・・・・」という事に意識がいくこともなかったのだし、今の在り方そのものが自分だった、そこに懐疑は生まれようがない。本当の自分というのは、場合によっては、そして
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2017年06月16日 08:26
どんなに本音と言われるものを話しているのだと言い張ったとしても、それを証明する為にどんなに露悪的にまくしたてたとしても。その奥には、多くの場合、満たされない想いを隠している、そして自分自身でもそれには気が付いていないふりを、していたりもする。話すという事は、満たされないものを満たそうとする行為、満たされないものを満たそうと考えた時、その想いは話す事なしには成就しない・・・・・・そして自分は何について満たされていないのだろうかと思案してみても、そこはなかなかひもとけなかったりして、それはナルシシズムに強く抵触してしまうから、だから分け入ろうとすると自分自身に抵抗されてしまうし、もしかしたら、その
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2017年06月15日 08:34
「みんなと同じように、人と同じように」と言う時のみんなや人というのは、その昔は多くの人が同じような価値観で生きていたのだろうから、一般論化された時代の空気・・・・・・時代の空気とか常識と言われるものに従ってさえいればよかったのかもしれない、レール上にしても逸脱にしても、次の段階では当然こうする、みたいな流れも存在した、ただみんなや多くの人が向いている方向を自分も向いていればよかった・・・・・・そこでは多分、大して疑問は抱かずに。今の時代はどうなのでしょうか、その昔に当たり前のように語られていた人生の在り方であったり、考え方や常識や価値観、こういうものについて多くの人が、それは幻想であると、又は
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2017年06月14日 08:38
人間関係の中ででも、恋愛関係の中ででも、自分のこれからについてでも、なんでもいいのですが、自分が行動を起こさなくてはいけない時とか何らかの意思を表明しなくてはいけない時とか。「正解を探そうとするんじゃない、大切なのは自分がどうしたいのかだ」という事はよく言われます(どうしたいのか?と聞かれれば、ほんとはどうもしたくない、だってしんどいし、というのもありますけれど、今はひとまずこれは置いといて・・・・)。そう、確かにそうではあるのだけれど、ただ闇雲に自分がどうしたいのか考えろと言われてもね、やっぱりそこでは、自分のこの選択は正しいのだろうか、という不安が芽生えてしまう事もある、そんな中で「いや、
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2017年06月10日 08:27
社会に周知されているのか、それともこれから周知されるのか、受容、共感、傾聴、ポップでライトなカウンセリングマインド・・・・・?手軽な相互承認、当たり障りのなさ、傷つけない為に気遣いと共に在るセンシティブな。自分を傷つけるものはいない環境・・・・・と言うより、自分を傷つけるものがいるはずのない環境、傷つけるものがいてはいけない環境、かけがえのない我々。いつかこういう環境になった場合、どこで自分を鍛えればいいのか、いや、そうじゃないですね、鍛える必要はないのでしょう、傷つけ合う事はないのですからね、倫理にしてもそれなりに変わってくるのでしょう。しかしまあ、その状態の先にある人間の強さというのはどう
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2017年06月09日 08:31
なぜ心は折れるのか、心というのは硬いものだからとか、極限までは我慢するものだからとか、美徳なのか潔さなのか。折れた事によって、やり切った感やある種の爽快感や納得が芽生えるのなら、それもいい。て言うか、心とは硬いものであるというイメージを持たないほうがいいのか・・・・・・硬い・・・・折れる・・・・当分使いものにならない、こんな認識も無きにしも非ず。じゃあ、どういう心がいいのか、よく分かりませんが、そしてニュアンスでしかありませんが、変幻自在の心とか、あとは、リゾーム的な心とか、幹を持たずにうねり続ける心とか。自分を曲げないからこそ折れるのか、でも納得のない所で自分を敢えて曲げる必要はないのでしょ
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2017年06月04日 22:22
あくまでも僕個人についての事でしかないのですが、僕は自分が価値の在る人間であると思ってはいません、これは断言できる、全く思っていない。自分はこれでいいとか、今のままでいいとか今のままで満足とか、そんな事も一切思っていない。自分の代わりなんていくらでもいると思うし、突き詰めれば存在したって存在しなくたって大した影響はない、社会全体という事で考えた時には尚更、これは全く影響なんかない。身近な人、自分の周りの人、自分と関わりのある人、そりゃあ、もし僕がいきなりいなくなったら、当分の間は悲しんでくれるのかもしれないけれど、その人達だって永遠に悲しみ続けたり、困り続けたりする訳ではない。いつかは風化して
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2017年06月04日 09:40
自分とは何なのか、とか、なぜこの個体について、なぜこの身体について、自分と認識するようになったのかとか。もっと言えば、この個体に対して、これが自分であると思う時の、その「自分」という認識そのものというのはなんなのか、名前とか性格とか性別とか個性とか考え方や思考や意識や、そんなような付帯以前に、これが「自分」と思う時の自分というのは、どこから発生したのか、どこから派生したのか。自分という意識が芽生えてから、自分の親はこの人で、こういう苗字で、自分はこういう名前で、という認識が芽生えるのでしょうから、それ以前にどこかで、自分という認識が、それはたぶん匿名でしかない漠然とした、しかし固有としての認識
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