記事のアーカイブ
2017年04月02日 09:09
完璧なものは・・・・・所有したくなる、そして所有する事が叶わないと判明した時、抹消する、自分の意識から排除するのか、存在自体を否定するのか。不完全なものは・・・・・守りたくなる、愛でたくなく、自然と感情移入する。不完全を作為的に演じるものには・・・・・嫌悪を抱く。完璧を所有しようとするものは、かなりのチャレンジャーでもありますね、自信がなければできない事ですし、多くの人は始めから諦めるのでしょうし。不完全なものと言うのは、見るものがそこに儚さや危うさを見出せば、それで成立するのですね、それが事実なのかどうかと言う事以上に、儚さや脆さを感じる事の方が「そうに違いない・・・・」と思う事の方が重要。
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2017年03月31日 21:57
たぶん・・・・・男性が男であろうとする時、のど元まで湧き上がってきた言葉を必死に呑み込まなければいけない場合もある、のだと思います。ほんとは駄々こねたり、キレたり、退行したり、そう出来てしまえばどんなに楽だろうか、そうする事によって責任を押し付けてしまえればどんなに楽だろうか、と思ったとしても、その衝動の寸前で踏みとどまる。踏みとどまる理由は、責任、背負っている大きな責任、それは自分に対しての責任も含めて。場合によっては「男であれ」と、それは多少暴力的でもある言葉によって、男らしさの極に追いやられているケースもないとは限らないのですが。そんな場合でも、その不条理すらも呑み込んで立ち続けようとす
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2017年03月31日 09:00
もし、そこにあるのであれば、自分のすぐ近くにいるのであれば、姿を見て見たいような欲望に駆られないでもないけれど、でも、そもそも、それに認識観察可能な実体のようなものがあるのかどうなのか。万が一、実体があったとして、目撃してしまったとして、自分はそれに対して「こっちに来い」と呼び込むことが出来るのか、かなり肚を決めないと無理なように思う。それは、完璧な欠落なのかもしれない、なにもないという仕方でしか認識しえない空疎なのかもしれない、観察不可能な巨大な混沌なのかもしれない、もしくはそれはただの鏡・・・・・自分の想いをいかようにも映し出すことができる鏡、完璧な希望であり絶望である、という鏡。目撃して
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2017年03月30日 09:17
分かりやすい言葉で話す、それは結果的にその言葉を聞く者から思考の自由を奪うという行為になってしまうのか?それとも何らかの戦略に基づいてなされているのか? という認識にならざるを得ない場合もある。なぜ分かりやすい言葉で話すのか、それは自分の発言に対して、相手の理解を求める為であり自分の正当性を主張する為でもあり、共感や賛同や承認を得る為・・・・・と言うのは上っ面の解釈であって、本当は相手を規定し思い込ませ操作する為、そうですね、まあ、これは極北においての話という事です。もっともらしく分かりやすい話を聞かされた時、その話に感化されて自分の意識が相手の意図する方向に吸い寄せられる、語りかけられた言葉
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2017年03月27日 08:55
「僕らの生きているこの世界は完璧だ」「美しく完璧なこの世界」という発想というのは、ちょっとした危険性も孕んでいるようにも思えてしまう時があります。行き過ぎると、実体と虚構が入り混じってしまう事もある。完璧な世界、そこには変革の余地はない、危険もない、何の疑いの余地もなくただ安心して信頼して自分を任せてしまえばいいだけである世界。完璧であると思えるものに抱かれて、心地よくまどろみ続ける、漂い続ける事が出来る。その状態と言うのは、退行・・・・・・幼児退行。優しく面倒を見てくれる私のお母さん、私の想いは何でも叶えてくれるお母さん、私を守ってくれるお母さん・・・・・・・・心的現実としての完璧な母性。そ
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2017年03月27日 08:54
「自分はめんどくさいやつなんですよ」という言葉はよく聞きます。把握、理解、納得してから動きたい人。自分なりに筋を通すとか、自分の価値観や考えとのすり合わせとか、落としどころとか、判断とか。自分なりの思考の経路があって、それは事象を一旦自分に引き寄せて判断するという経路。自分を受容していて、自分に責任を持とうとするという事、これが「めんどくさいやつなんですよ」という言葉で表現される場合もあるように思います。自分に責任を持とうとするのですから、めんどくさいやつというのは、一つにはポジティブな言葉なんじゃないでしょうか。
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2017年03月26日 09:18
公園の脇を通りかかり、桜の蕾がほころびかけているのを目にした時、ふっと、正月が一段落した1月の中旬の頃の心持ちに引き戻されました。極寒の中、手袋と帽子と二重のダウンと・・・・・そう、異常に寒がりなもので、完全防備の中、公園の脇を通りかかり桜の木を目にして「・・・・・この桜が咲くころには・・・・」みたいな事を、その時、桜が咲く頃に何がどうなっていて欲しいと思ったのか、よく覚えていませんが。その時から既に二か月以上が過ぎ去った。否応なく、時は過ぎ去ってゆく、当たり前の事ですけど、全ては過去になる事は間違いない。僕らは今しか生きられないというのは本当なのか。今しか生きられない訳じゃないようにも思いた
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2017年03月25日 09:01
自分の分身が欲しい、自分がもう1人いればいいのに・・・・・・・自分のクローンみたいな感じでしょうか。忙しいからだったり、自分がやりたくない事は自分のクローンにやらせたいからだったり、朝とりあえずそいつを起こして「よし行って来い」と会社に行かせて、自分はやりたいことをやるのか、二度寝するのか。自分の代わりに行動させるという事は、周囲から見た時に完璧に自然で区別のつけようがなく、自分と同じ思考で、同じ判断で、同じ受け答えで動いてもらわなければいけない、自分だったらこうする、という行動をとってもらわなければならない。もしくは、自分の理想とする行動を、それはちょっとしんどいような事でも、嫌がらずにこな
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2017年03月24日 21:51
僕らは、と言い切ってしまう事はやめておきます、だから少なくとも僕はという事で。じゃあ・・・・・・僕は、常に答えの出ない中を、これは自分が答えを求め続けているのか、それとも達観?もしくは諦め?のもと、答えなど見出しようがない、と感覚的に思っているのか、それすらも定かではない中で、それでも何かを求めて生きている、そしてその何かと言うのは、具体的に何なのか、その解明を保留にしたまま生きている、ように思います。一時的な、各小節ごとの、とりあえずの、その都度の自分を納得させる答えというのは、見い出せることはあるのですが、そういった小さな各物語の答えではなく、自分の人生という大きな物語りの答え、これは保留
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2017年03月23日 21:38
年齢と共に、なのでしょう、きっと・・・・・あれが欲しいとか、これが欲しいとか、なにが食べたいとか、あんまりそういう事に関心がなくなってきているようにも思います。でも、何にも関心を示さない中で生き続ける事ができるのかというと、それはやはり不可能なことで。何にも関心を示さない自分、というものを設定して、そういう自分の状態そのものに関心を向けるという事は可能なのでしょうが、僕はそんな彼岸まで到達しようとは思っていないので。だからやはりそれなりに、物欲以外の部分に関心を向けながら日々を送っているのだろうけれど・・・・・・そうですね、多分それは、人、それも自分に似た人、経験とか性格とか、自分の構成要素の
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