記事のアーカイブ
2016年08月02日 09:13
日々の中で、多くのもの、多くの情報、厳密には多くの言葉と言った方がいいのかもしれませんが。その多くの言葉と常に偶然に出会い続けて、そしてそのほとんどは自分を通り過ぎてゆく、となるとそれは自分にとっては無意味なものでしかない訳ですね、当面は。自分に向けて発せられた言葉、書店の棚に並ぶ多くの言葉、テレビやスマホからアナウンスされる言葉、街中に溢れている言葉。そんな中で、何故かたまたま琴線に触れ、自分を通り過ぎなかった言葉の中のごく一部が自分に有効に働いて、いい作用を生み出した時、事後的に「自分にとって運命の出会いだった」と認識される、自分から能動的に探している時は別ですけど。だから、なんでしょう、
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2016年07月30日 20:25
ある一つの考え方・・・・・それが正しいと信念に基づいて行動出来ている間は勿論いいのだと思うのですが、そしてそれは自身が生きやすい状態である、という事ですよね。逆に一つの考え方、もしくは学問の中の一つの理論でしかないものに照らし合わせて頑なに自分を規定してしまうというのは、ちょっとどうなのかな、とは思います。その考え方に合致していない自分を感じた時「・・・こうあらなければいけないのに」と自己否定にもつながってしまう可能性もない事もないのでしょうし、自由度や可能性を摘んでしまう事にもなりかねないのかもしれないですし。特に人間の精神という見えないものを扱うような学問というものには、沢山の種類がありま
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2016年07月28日 21:49
ちょっと浅い話になってしまいますが・・・・・嘘というのは、嘘をついた瞬間から、自分を規定してしまうもののように思います。なんというか、自由で素直な選択を続けられなくなるというか。なるべく自分の想いに近い言動を続けていれば、この先には自由な選択が広がっているのかもしれないですけど、嘘をつくという事は、その嘘によって自分のこれからの行動が自ずと規定される、縛られる。そうしないと人から「嘘つき」って言われてしまいますからね。「こうしてみようかな」という想いが湧き上がってきたとしても、ついた嘘に整合性を持たせるために、その想いは断念せざるをえない、そうか、だから結果的には自分の正直な思いにも、というか
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2016年07月27日 09:14
バラエティー番組などで「さあ、この中で女装している男性は誰か当てて下さい」みたいなのを時々見かけます。確かに、女装している男性のレベルが高すぎて、なかなか判断付かないです。そういう男性に「恋愛対象は?」と質問すると「え、普通に女の子が好きですけど」という答えが返ってきている訳ですが。そう、女装しているから云々・・・という事ではなく、恋愛対象になるのは異性、普通にヘテロなんですね。テレビからの情報でしかないので、もっと奥深い世界があるのかどうなのかは分かりませんが。当然自分自身が女装を楽しむという事や非日常を楽しむという事が、基本になっているのでしょうね、実は今の時代の若い人が羨ましかったりもす
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2016年07月24日 09:24
山の向こうに夕日が沈むのを見て、なんとなく寂しく感じる人、充実感や勇気が湧き上がってくる人、明日へ希望を見い出す人、「わあ、きれいな夕焼け」得した気分に浸る人。そこにある現実というのは、ただ太陽が自分の今いる場所から見えなくなる寸前に太陽光が大気の層を日中より長く通過する為に青系の色は届きにくくなり、赤系の色が目立つようになるという現象が起きている、というだけの事なのでしょうが、そしてその事だけが夕日を目撃しているすべての人に起こっている現象、という「現実」なのでしょうね。でも、こんなような屁理屈を言って、現実をそのまま認識しようとする人はいない訳で。ほとんどの場合、その現象を自分なりの言語に
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2016年07月23日 09:28
ゲームセンターに行ってゲームに興じるのは、エンターテインメントになるのでしょうね、遊園地やさまざまなプレースポットと同一線上に位置しているように思うので。ゲームセンターでやるゲームとスマホのゲームというのは、行為している時の気分というのは、同じなのかどうなのか・・・・ゲームやらないからその辺はよく分からないのですが。もし、どちらも同じような気分になるようなのであれば、それは常にエンターテインメントを持ち歩いているという事なのか、その気になればいつでも接続可能なエンターテインメントという事なのか。楽しむ目的で外出する、という事もエンターテインメント性に含まれるのであれば、またちょっと話が違ってく
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2016年07月20日 09:10
人に尊敬の念を抱く時、その人は憧れの存在であったり、自分が目指すところにいたり、なりたい自分のモデルのような人であると感じたり。そういった動機から尊敬の念が芽生える事もあります。だからその人は、自分の延長線上・同一線上にいる人である、とも言えるのかもしれませんね。これは、ちょっと見方を変えると、今の自分を受け入れ尊重していないと、適切には抱きにくい感情なのかもしれません、延長線が自分の所で途切れてしまうというか、そもそも延長線になりようがないですからね。 素直に尊敬の念を抱けるかどうかというのは、一つには今の自分を受け入れているかどうかという事のバロメーターにもなりうるのかもしれませ
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2016年07月19日 09:37
想像的に了解するしかないもの・・・・根拠があるようでいて、根拠がないものを説明するというのは難しいですね、心というのもその一つでしょうか。言葉を話せるようになってからの自分がしてきた全ての経験が記述されている所、それは思い出そうとすれば容易く思い出せる経験であったり、逆にさまざまな理由から忘れ去られている、そして忘れ去られた事すらも忘れ去られている、要するになかったことにされているような経験であったり。そこを、言葉が詰まった無意識的な領域であると考えてみた場合。その無意識的な領域には、自分の事なのにも関わらず、自分の言葉で上手く説明できないような問題も含まれていて。それは、自分が言葉を話せるよ
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2016年07月18日 09:38
こうやって文章を書こうとする時、例えば人の話し声や、テレビの音や、歌詞のある音楽もそうですけど、何らかの言葉が自分の中に入ってくると、その入ってきた言葉に邪魔されて、自分の中から自由に言葉が出てこなくなります、要はなにも書けなくなるという事なのですが。これは集中してしまえば大丈夫・・・とかそういう事ではなくて、ダメなんですね、全く自然な言葉が出てこなくなってしまう。そうすると、理性によって書くという事になってしまうので、全然自分の言葉にならない。いつも微かに浮かび上がってきた言葉を手繰り寄せながら書くので、だから脆弱性の中で出力しようとしているのを入力によって邪魔される、というイメージなのです
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2016年07月16日 20:34
カウンセリングの文脈だけに限った話では無いとも思うのですが。自分が苦しい時、誰だって・・・・と言っていいのかどうかわかりませんが、少なくとも僕が知っている人達は、と言った方がいいのか。一通り自分の状況を話しただけなのにもかかわらず、いきなり分かったような顔をされたくはないんじゃないのかな、なんて事を思います、究極的にはということですけどね。分かったような顔という事は「それは話を聞いた人なりに理解・了解した」という事につながったり、力関係の構築につながったりする訳で、そこでは何らかの・・・・それは、そう、慰めであったり、提言であったり、自分の経験に落とし込んでの励ましであったり。それはひとつ間違
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