神奈川県藤沢市城南 東海道線沿線のカウンセリングルーム。辻堂駅より国道一号線方面へ徒歩12分。10:30~21:00、年中無休。


記事のアーカイブ

2016年06月09日 09:24

ちょいちょいコケる人

完璧にそつなく、なんでもこなす人、隙のない人・・・・・憧れの存在になれますね、みんなのお手本、尊敬の対象にもなります。一生懸命頑張るんだけどちょいちょいコケる人、しっかりしている事はしているんだけど何処か残念で、でも憎めない人・・・・・親近感が湧きます、あんまりとっ散らかりすぎるとまずいとは思いますが。なにかちょっとヌケている人、天然な人、欠けている人、こういう人には何故か親近感を抱きます、なんとなく安心して近づけるようにも思ってしまうんじゃないでしょうか。表面的には、相手の欠如した部分を目の当たりにして、自分と変わらないと思えて近づきやすい、と言う事なんでしょうね。・・・・・心の中に自分が産

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2016年06月08日 09:28

「あなたはあなたである」の素

自分をよく見せようという思いを持たずに話す。そして、話す事によって相手を操作しようという策略は一切持たない。ただ、純粋に自分の言葉を話す。勢いでカッコ悪い所も見せてしまったりする事もありますけど、そういうのも相手に親近感を与える場合だって十分にありますし。「あなたはあなたである」の素となるものの一つなのかな、と思います。「あなたはあなたである」と個人として理解されようとした時、自分を見せない事には周りは判りようがないですしね。状況に応じてですが、この人は、と思った時には、純粋に自分の言葉で話してみてもいいのかもしれません。冒頭の三行というのは、年齢性別に関係なく、人が最も魅力的に見える瞬間だと

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2016年06月08日 09:25

見た目や雰囲気が似ている人

似ている事、補い合えること、丸ごと受容してくれる事。好意を抱く時の、とっかかりみたいなものですよね。なんか最近思うのは、けっこう性格云々・・・というのは、あと付けの理由だったり、二の次だったり、そんなイメージも無きにしも非ず、的な、どういう自分を表現するかというのは、接する相手によって違ってきたりしますし、極端に言えばですけど。補い合える事というのは、自分にないものを持っていて、そこが尊敬できて魅力を感じる、というような事にもなってくるんでしょうけ。これって、一緒にいる中で自分が相手のいいところを吸収して、本来は相手の魅力だったものを自分のものにする事ができて、なぜか自分の方が相手より優れちゃ

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2016年06月05日 09:36

取り残してきたものたち

自分の意思とは関係なく先へ先へと進んでいってしまう話題・会話・コミュニケーション、本来は、自身が納得の上で情報の伝達と情緒の伝達の両方がなされるべきなのでしょうが。頑張って話の流れに付いてゆくしかないのかな、その為には犠牲にしなくてはならないもの、取り残していかなければならないものが必要なのかもしれません、そういったものは相互承認の為、空気を乱さない為にも、必要なのかもしれませんね。なにを取り残していくのか?・・・・それは、本当は一旦立ち止まって向き合いたいようにも一瞬だけ感じた、自分の本当の想いであったり、自分はどう考えるのかという確認であったり、もう少し深く掘り下げたい衝動であったり、適切

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2016年06月04日 21:57

社会的役割、存在を主張する為の。

多くの場合、それぞれが所属している共同体(家族も含めて)の中で何らかの役割を担う事で自分の存在を主張し続ける、という事になるのでしょうか。主張というと大袈裟ですが「自分はたしかにここにいます」と声を上げ続ける、というほどの意味合いです。存在を主張しない事には周囲から認識されませんしね、認識されないという事は・・・・・みたいな話にもなってしまうのかもしれませんし。その役割とは、自らが率先して掴み取った場合と、要請によって引き受けた場合とがありますね。率先して掴み取る理由は、自己実現。得意だから・自分にできそうだから・野心に突き動かされて等々、そういった事になるのかな。要請によって引き受けた場合は

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2016年06月02日 20:09

苦悩を打ち明けられた時

人から苦悩を打ち明けられた時。その人の身になって考えるとか、共感とか、そういう技術的な事より大切な事は。「・・・・・はたして自分はこの人と同じ状況に置かれた時、こんなふうに耐える事ができるのだろうか、話す勇気を持つ事ができるのだろうか」こんなふうに考えられる事で、自然と敬意や尊重の気持ちが芽生えてくると思います。

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2016年06月01日 09:28

不適切な評価

悲しみ、怒り、孤独、無力感、理不尽さに長く直面している時、ただ励まされたからと言って、叱咤激励されたからと言って、そうそう動けるものではない、と思います。正当に評価されないという事は気力を削がれる、人から動こうとする力を奪う、こういった場合も多々あるんじゃないでしょうか。適切に尊重される事、適切に評価される事、適切に認められる事、適切に感謝される事、とても大切です、それによって動こうという衝動が湧き上がってくるんですよね。ーーご自身を取り巻く環境の中でいつの間にか病んでしまう、とも言えるのだと思いますがーーいつしか誤った評価に抗えなくなってきて、その誤った評価を受け入れざるをえなくなってしまっ

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2016年05月31日 09:37

理性って何処にあるの?

意識とか自我とか言われているものの上に理性がドンッと乗っかっていて、ともすれば感情的に行動してしまう自分を理性が常に監視している・・・・・という訳でもないような気も、というかそういう人って見た事ないんですよね。言ってみれば、心という言葉でしか言い表せないような所に、生まれてから今日まで自分が経験したすべての事が漂っている、それはなんというか、全ての経験が記憶(言語)として混沌と渦巻きながら、なんらかの連携をなしいているとでもいうようなイメージでしかなくて(自分の性格とか思考とか発する言葉の元となるものですね)。勿論、社会性を持つ段階で「理性的であれ」という言葉が最初にインプットされるのでしょう

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2016年05月30日 09:13

自分に落胆したくはない 突き付けられたくはない

「失敗を恐れちゃいけません」と言われますけどね、失敗は嫌ですよ、怖いです、もし失敗したら自分はダメだと結論付けられたり、能力がないように結論付けられたりするんじゃないかと想像しますしね、そうなると行動自体が起こせなくなってもしまいます。人からそう結論付けられるのではないか、という想いは勿論ですが、自分で自分にレッテルを張ってしまうというのも当然あります。「ほら、やっぱり自分はダメだった」と思う場合と「あれ、もう少しやれるのかと思ったけど、そうか自分はこんなもんだったのか」と思って挫折を感じてしまう場合と。失敗を恐れる原因として、一番大きいのは「・・・・自分はこんなもんだったのか」と落胆しなくて

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2016年05月29日 18:57

食べない事 食べ過ぎる事 強迫的な事

「なに食います?」とか「めし行きます?」とか聞かれた時、なんか最近「あぁ・・・・カツ丼」としか答えてない、ふとそんな事に気がつきました。あれはどうなんですか? 一人前ちゃんと食べきれば1000キロカロリー位は一気に摂取できるんですかね、無意識的に効率を求めたりしているのか、ただ考えるの面倒で条件反射的に、食事~選択~思考の放棄~カツ丼、みたいな強迫的な回路が出来上がってしまっているのか。・・・・食べるという行為は、考えてみるとなかなか難しいものですよね。生命維持のためには、適切な量を適切なタイミングで「あぁ、おいしい」と摂取すればいいだけの事なんですけど、それが自然で当たり前であるべきなんです

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