記事のアーカイブ
2016年05月11日 08:57
日々生きてゆく中で、時々何かを選択します。選択には、自分なりの理由がありますね。その自分なりの理由に自分自身が納得できているかどうかというのは、とても大切な事ですよね。理由に自分が納得できていないと、失敗した時にその経験を省みて糧にすることを放棄したくもなってしまいますから。・・・・・なんか、あれですね「振り返った時、出来れば肯定的な意味を持っている自分でありたい」・・・・・生きるってこんなような感じ。
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2016年05月10日 09:42
あの時はただ、見失っていただけ、霧がかかっていただけ、混沌としていただけ、自信を失っていただけ、立ちすくんでいただけ。いつかそんなふうに感慨深く振り返れるように。安心感や肯定感と共に、まずはゆっくりと休んで少しずつ本来の自分を取り戻してゆく。自分の過ごしてきた日々を空白にしないためにも、意味を与えるためにも。・・・・・諦めない為には、強くなる為には、休むことも必要です。そして、休むという事に対する心の準備も必要です。
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2016年05月09日 09:37
身体に自他や自分と環境を区分する輪郭があるのと同じように、精神にも輪郭があるのでしょうね。精神に輪郭がなければ自他の意識の区分も不可能なのでしょうから、当然といえば当然の事なのですが、・・・・区分できなければ自分が思った事なのか、人が思っている事なのかすらあやふやになるのかもしれませんし。その輪郭はどんな形をしていて、なにで出来ているのかは知りりませんがーーだって精神って目に見えないですしねーーその輪郭の大部分もしくは一部分はプライドという言葉で言い表されているようなもので出来ているんじゃないのかな、と想像させられる事があります。そこには自分は自分であると思える事であったり、固有性を了解・認識
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2016年05月07日 20:23
滅多に会う事のない自分より年上の親戚の人達に会った時。なんの話をする訳でもないのですが、ホッとするような、なにか暖かくなるような、自然に自分を受け止めてくれる空間が確かにここに存在している、と言った表現が適切なようにも思うのですが。その人達は、自分の両親の口伝も含めて、生まれた瞬間、もしくは生まれる以前からの自分の存在について了解していて、今更カッコつけようがないと言うべきか、曝け出す以外にないというべきか、どうせ何もかもばれてるんだし、という感じで。存在そのものを了解されていて(確かにここにいていいのだ、という感覚でしょうか)、一切の装飾・虚飾が無効になる場所、血縁という事も勿論あるのでしょ
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2016年05月07日 09:16
やっぱりありますよね、痛い思いしなきゃ分からないこと、というか後から冷静に考えてみると「なんでやっちゃったんだろ?分かりきってるのに・・・・」という事。結局、実感しないと、体験しないと気が済まないというか、理性では分かっているんだけど、感情も含めた意識全体で想像的に自己愛的に成功の確率や想いを通せる確立も40%位はあるようにも何となく感じて、魅惑的にも思えて。で、その40%だけに魅入っているうちに、なぜかどんどん増幅されていって90%位だと勘違いしてしまう、根拠は皆無だし、元々の40%というのだって幻想なのだとしても。自分の危険察知システムは赤ランプピカピカ点灯させているんだけど、なんか意識の
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2016年05月05日 09:34
え~と、SFなんかで出てくる、人間が脳と神経系だけの存在になって水槽みたいな中にプカプカ浮かんでいて、脳のあちこちに電極つけてコンピュータにつないで思考だけの存在みたいなのになる。あれは想像するに、どうなんでしょうね、心っていうのはどこ行っちゃうのかとか、自分が目にした身体に同一化する事で自我が想像的に発生すると考えると、身体がない訳だから自我を保つ事はできないんじゃないかとか。自分を保つのって、思考を保つ事でもあるのでしょうが、思考を保つのに身体的な刺激というか、五感を刺激するというか、なにかそういった刺激がないと、要は入力がないと思考というのは簡単に混沌としてきてしまうようにも思いますし。
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2016年05月01日 09:20
自分と似た外傷を持った人と語らう時、同性異性年齢問わずに。とりわけその開示された外傷が自分の経験など掠れてしまうくらいの強度と衝撃を伴ったものである時。敬意と共に勇気や感謝の気持ちが自然と湧き上がってくるのではないでしょうか。むき出しの共感という経験は、大きな勇気に浸される機会であるように思います。
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2016年04月30日 09:29
人となり整理整頓、物は定位置にという人は几帳面な人、特に自分に対して。物を扱う態度から見えてくるのは、自分の心の在りようとか自分の性格に近いようなもの、という事なのでしょうが、これはなにも几帳面さに関してだけ言えることではないですよね、多くの事においてそうなんじゃないでしょうか。物を大切に扱うーー自分を大切に扱う物を粗末に扱うーー自分を粗末に扱う物をなくすーー自分を見失う物にすぐに飽きて次々と買い替える・・・・・物に愛着を示す・・・・・物を捨てられない・・・・・・・・・なんか挙げだせばキリがないですけど、通常の精神状態の中では、なんとな~く人となりが垣間見えてくるところのものでもあるように思い
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2016年04月29日 09:31
光を手にした時、何かに感謝したくなります、自然と。何に感謝したくなるでしょうか?支えてくれた人、見守ってくれた人、厳しくも愛をもって接してくれた人・・・・・他にも状況によって沢山のものに感謝したくなるのかもしれませんね、もちろんとても大切な事です。でも、一番感謝するべきなのは自分自身。折れそうになっても、くじけそうになっても、ギリギリのところで前を向き続けた自分自身に感謝を、という事なのだと思います。自分が下を向いてしまったら、周りが何をしようと、決して手にする事はできなかったのですから。
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2016年04月28日 10:01
会社に所属して仕事をする、というのが一番分かりやすくて典型なのでしょう。僕らは歯車なのか、歯車ではないのか、まあね「歯車にはなりたくないぜぇ」みたいな事は口にした記憶もありますが。交換可能な存在である時点で、それは歯車という事になるのか。会社で働くという事ではなくても、社会に張り巡らされているさまざまなシステムを支えるための歯車である、という見方もありますし。生きているという実感以上に、システムを支えつつシステムに生かされているみたいなね、科学的にとか社会的にとか、そういう意味ですが。ーー交換は不可能であるという考えというのは、どうしてもナルシシズムに・・・・的にも思えて、でもそれがないと生き
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