記事のアーカイブ
2016年03月30日 08:56
テレビ番組とかCMとか、色々な事を教えてくれます。美味しい食べ物のお店、遊びに行ったら楽しい場所、流行し始めていること・・・・。さまざまな余暇の過ごし方、時間と金銭の消費の仕方を教えてくれます。テレビは視聴者にとっては無料の情報で、スポンサーで成り立っているのでしょうから、当たり前なのでしょうね。でもテレビだけじゃないですね、あちこちに無料の情報がちりばめられていて、自分の意識の中にひっきりなしに流れ込んでくるようにも言われますがほんとにそうなのかな?どうなんだろ?・・・・というのは今はおいといて。だから、踊らされさえしなければいいのでしょうね、逆に教えてくれている事を利用してみんなで楽しむた
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2016年03月27日 12:43
何かを工夫したり、理解したり、有意義な学習をしたり、本来は「知」に関する行為というのは、喜びにつながったりもすることなんでしょうね。でもそれは、強制されると何故か嫌になる、という・・・・。学生時代の勉強って言うのもね、楽しく感じた記憶ってあんまりない。まあ、やらされていた感満載だったし。授業をちゃんと聞いて、理解して、記憶して、試験でいい点を取らなければならない、みたいな義務感MAXで、やらされてる感しかなかったからなのでしょうけど。「自分の為ですよ」という投げかけも、今振り返ればそれはそれで、もう本当にその通りでしかない訳でね。でもたまに、なんとなく自分のやる気のタイミングと試験の結果がうま
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2016年03月24日 21:29
話す事で楽になる、というのは、間違いなくあると思います。というか、基本なのでしょう、そうすることでしか本来的な解消に向かい始める事はできないのですから。ただ、ここには条件があるような、ないような・・・・、でもやっぱりあるとしか言いようがない、と言ったらいいのかな。いや、回りくどいですね、条件が必要だと僕は思います。信頼、という言葉にしか還元できないような何か。 契約に基づいた信頼は絶対条件ですが、それ以上に、人間同士の適切な情緒の交換、あとは相手に対しても自分に対しても誠実である事とか、尊重とかも、・・・フリじゃないやつね。ーー当たり前の事ですが金銭には還元できない何かというのが信頼
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2016年03月24日 09:21
理屈では、頭では、行動を起こさなくてはいけない、先へ進まなくてはいけない。こういう事は分かっていたとしても、なかなか体が動かない、ついていかない、こういう時ってあります。頭では分かっているんですけどね、なぜか動けない、というかあんまり動くという意識を働かせないようにもしているのかな。こういうのは、やっぱり感情の部分が、たぶんあんまり納得いっていないというか、まだ未練を感じている時なのかもしれませんね。こういう時こそ「あなたの感情と向き合ってあげましょう」みたいな言葉が生きてくるのでしょう。何かを失いつつも、それ程居心地が悪くなかったようにも思えてしまう場所。事実が判明してしまうと、うすうすは感
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2016年03月23日 20:03
今日はカラッとしたいい天気でかなり気持ちのいい一日でした。こういう日は洗濯物もよく乾いていいですね。そうは思うのですが、しかし自分も乾いて、というか乾燥しまくってあっちこっち痒くてしょうがない。そうでしょうね、乾燥していてよく乾くのは洗濯物だけじゃなくて、自分自身もよ~く乾いちゃうんでしょうねズボンで擦れるふくらはぎ、肘から先の部分、肩甲骨のでっぱりのあたり、あとまだ花粉なんでしょう、目とか喉も。乳液とか塗ればいいのかもしれないけど、なんかしっとりしちゃいそうで、どうもしっとりしている自分って言うのが、想像すると不気味でね。でも、粉ふいているよりはいいんだろうけど。
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2016年03月22日 20:54
誰でも、常に旋律を奏でているのでしょう、普段忙しく立ち回っている時には殆ど気にかけませんが。ふとした瞬間、その旋律に耳を傾けてしまう事があります。耳を澄ましてみると、それが聞こえてくる場所は、心の奥の方からであったり、もしくはあえて意識から隔離して自分で見ないようにしている所からであったり。言葉ではなく漠然としたものとしての、美しい旋律、悲しい旋律、優しく暖かな旋律。奥に押し込めていたり、見ないようにしているということは、それは悲しい旋律ということなのかもしれないですね。自分の内界で奏でているその旋律に同期する外界からの旋律ーーこれは実際の音楽であったり、人のぬくもりであったりする訳ですがーー
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2016年03月21日 09:31
心というのは、決して完成する事のないジグソーパズルのようなものなのかもしれません。初めからワンピースだけ欠けていて、自分ではもちろん、まして他人に頼っても決して完成させることはできないジグソーパズル。誰もがその事に薄々は感づいているとしても、それでもやっぱり、最後のワンピースを埋める為に一生懸命になる、未完成というのは不安ですからね。恋愛、仕事、物欲、食欲、肩書、趣味、承認・・・・・、さまざまなものを最後のワンピースであるとみなし、パズルを完成させようとします。最後のワンピースとみなしたものを手にし、ホッとしてはめ込もうとするのですが、やはり微妙に形状が違っていて決してうまく嵌まり込むことはな
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2016年03月20日 09:43
無神論と言いつつも、勿論お彼岸や盆や正月や命日には墓参りに行ったりするわけですが。手を合わせ、ご先祖を想い、そして何かに漠然と感謝したりもします。ご先祖を想う事と宗教というのは全く別の事なんでね。でも、墓の前で自然と感謝している自分に気が付く時、思う事があります。どんなに科学が発展して、さまざまな事が解明され、その結果として信じて疑わなかったことが幻想だと暴かれ続けたとしても。僕らはやはり、情緒であったり、何かを頑なに信じ続ける事であったり、そういった事によって支え合い続けながら生きてゆくのでしょう。どんなに科学的・合理的思考のもとにある人だとしても、不安感や欠如感が完全に消え去るという事はな
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2016年03月19日 20:26
自分に柔軟性を持たせたり、考えを豊かにしたりするのに、理論的な事であったり、なんらかの学問的な事であったり、学ぶこともありますね。でも、そこで得た知識や理論というのは、自分をそこに当てはめて規定してしまうものであってはいけないのだと思います、100%現実的な状況に当てはまるという事はないですし、そもそもそんなの窮屈で嫌ですしね。あくまでも、自分の行動や思考をサポートする為に、現状の自分に合わせて応用するのがいいのだと思います、自分が利用する以上のものである必要なんかないです、その方が可能性も見い出せるでしょうし。自分を豊かにする目的で学んだはずのものに規定されて、結果的に自分を追い込んで窮屈に
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2016年03月19日 09:36
人とつながること、人から認められること、立ち位置を確保すること、愛を循環させること、一体感を得ること・・・・・、さまざまなことによって自分を保ちます。もっと言えば、そうする事でしか通常は自分というものは保てないのだと思います。そしてときに人生の一時期、均衡が崩れる事態を迎え、大きな現実的な事に直面して苦悩している自分、葛藤・暗中模索している自分、という自分を認識する事でしか、自分を保てなくなる時もあります、誰にでも起こりうる事ですね。苦しいですが、その苦悩する自分というものが自分の存在そのものであると認めることによってしか自分を保つ術がないといった状態です。精神的に外界を遮断するわけですから、
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